ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]入れ子の水は月に轢かれ

 

入れ子の水は月に轢かれ

入れ子の水は月に轢かれ

 

 

 早川書房などが主催する「アガサ・クリスティー賞」はイギリスのアガサ・クリスティー社が世界で唯一公認する推理小説の公募賞である。審査員も北上次郎鴻巣友季子藤田宜永といったベテラン作家・翻訳者の各氏に加え「ミステリマガジン」の清水直樹編集長という錚々たる面々が名を連ねて選考を務めているのだが、今回(第8回)の大賞受賞作が発表された時はその受賞者名に読書界はちょっと騒然となった。
 受賞作のタイトルは『入れ子の水は月に轢かれ』。そして界隈をザワザワさせた著者の名前は「オーガニックゆうき」氏。え? 芸人さん…? 何者…? とその正体不明ぶりは話題を呼んだが、もちろんこれはペンネーム。母親と一緒に考えたものだそうだ。編集部から「真面目な名前に変えては」と諭されても頑として変えなかったそうである。カバーに書かれている作者名の英語表記が「ORGANIC×ORGANIC」になっているのが笑える。
 そんなエピソードからもただ者でなさが伝わってくるオーガニック氏は沖縄県出身。小説の舞台も同県の県庁所在地・那覇市だ。

 長野県出身の青年・岡本駿はある事情を抱えて沖縄・那覇にやってきた。彼は平和通りに平行して通る「水上店舗通り」でラーメン屋を出店しようとしていた。市内を流れる「ガーブ川」に蓋をして作られているのでその名がついた「水上店舗通り」には個性的な店主やお客さんが暮らしている。異様に数字に強い店のオーナー・鶴子オバァや、駿と共同生活するヘンなフリーターオジサン・健さんはその代表格だ。健さんは破天荒で行動的で底抜けに明るいオジサンなのだが、彼もなにやら重い過去を引きずっている様子。
 しかしラーメン屋オープンの日、第1号の客がガーブ川で死体になって見つかった。犠牲者は駿が以前見かけたことのある人物だ。気になった駿は健さんとともに調査を始めるが、事件は思わぬ展開を見せ、戦後沖縄の闇に足を踏み入れていく。それはどうやら健さんの過去にも関わりがあるようなのだが…。
 調査途上で浮上したキャンデス氏なる謎の人物は何者なのか。暗躍するCIAの目的は何か。複雑に絡み合った歴史が浮かび上がる。

 異様な勢いと迫力で押し切るミステリーだが、実は那覇で生まれ育ってガーブ川近くの小中学校に通っていた自分にとってはど真ん中の地元小説でもある。非常に馴染み深い地名や店名が数多く登場し、物語の舞台である2017年に話題になったローカルなニュース(農連市場移転など)もそのままストーリーに出てきたのでちょっと感動した。
 自分的にはそんな思い入れもあるのだけど、さて、ミステリーとしての完成度について目を移してみると、巻末に掲載されている選評では藤田氏は<ミステリとしての穴はかなりあるし、文章もあらい>、清水編集長は<謎解きに関わる部分、キャラクターの整理など、まだまだ改善の余地>はあると本書の課題点を挙げている。
 地元が舞台なので贔屓目で見てしまい、尚且つミステリーはあまり詳しくない自分だが、たしかに上記の部分は弱いように感じた。例えば物語の講造は基本的に「駿が何かに戸惑う」「健さんがいろいろ調べてくる」「あれこれ言う」「駿か鶴子オバァが何かひらめく」の繰り返しなので、やや単調である。作中で何か起きても「どうせまた健さんがどうにかするんだろう」と感じてしまうのだ。終盤の主人公がピンチになる場面は緊張感あったけど。
 またタイトル通り水と月(潮の満ち引き)が重要な仕掛けになっているトリックは面白さはあるが、物語前半までに提示されている情報だけでは恐らく読者にはわからないので、早い段階で見抜くことは難しいはず。そもそもガーブ川は蓋がされて長い時間を経ているので、その流れは地元の人でもきちんとは把握できていない人が多い。ましてやそうでない人には位置関係を把握するだけでも大変だろう(巻頭に掲載されている作者の手による地図を何度も見返すことになる)。
 ちなみに最近では2009年にガーブ川で鉄砲水により作業員が流され死亡する事故が起きて大きなニュースになっている。この事故が小説の着想のきっかけになったのかもしれない。

 しかしこれらの弱点を飲み込んだ上で、読みどころはこれも選評にあるように濃密な沖縄の描写だ。あまり描かれることのない観光地ではない沖縄。美しい海や優雅なリゾートホテルは登場しないが、そこに暮らす人々の熱気がムンムンと伝わってくる。権力の上下関係やカネの流れ、生きるために必死になった名も無き人々の歴史。クセの強い登場人物たち。これらを濃密に描きながら、特に説明もなく沖縄の言葉や固有名詞をどんどん繰り出してくる迫力に圧倒される。「B円」とか県外の人にはピンとこないであろう単語も特に説明されず出てくるので読者は想像しながら読むしかない。まあわからない部分は読み飛ばしても問題ないように書かれてはいるのだけど、「わかる奴だけついてこい!」という気迫は凄い。本に巻かれた帯には作者によるウチナーグチ(沖縄語)のちょっとした解説もついているので要参照。これ帯ではなく巻頭に収めてもよかったのではないかと思うのだが。(ただし個人的には「おもろそうし」は「おもろさうし」と表記してほしかった)
 沖縄の人なら、冒頭の主人公の名前をめぐるやりとりを経た後であれば怪人物キャンデス氏の正体についてはすぐピンとくるだろう。登場人物たちは終盤まで頭をひねっているが、僕はこの名前が出てきた瞬間この言葉遊びに笑ってしまった。作者は狙っていると思うのだけど、この感覚は県外の人にはわからないと思う。

 作中の謎には沖縄の戦後史が大きく関わっている。日本史の表舞台に登場することはほとんど無いが、この時代は沖縄の人々にとってかなり激動の時代だった。これを物語に組み込んだ目の付け所は良い。今年度の山田風太郎賞受賞作である真藤順丈氏の冒険小説『宝島』(講談社)でも描かれたが、日本復帰前(1945~1972年)、国内が高度経済成長に湧くのを横目に米国施政下にあった沖縄で何が起きていたのかを描くのは興味深い試みだ。
 そう考えると、沖縄戦における組織的戦闘終結の日とされる「慰霊の日」翌日の6月24から物語を始めたのは恐らく作者の意図的なものだろう。そしてストーリーは8月15日に重要な転換点を迎えるのだが、(作品の舞台である)2017年の同日は旧暦の6月24日にあたるというのも象徴的で、作者の企みなのかもしれない。

 オーガニック氏は前回のアガサ・クリスティー賞でも別の作品で最終選考に残っている。審査委員によると、前回からの成長ぶりが目を瞠るもので、<まだけっして完成形ではないが、この作家はもっともっと大きくなる>(北上氏)と評価されており、現時点での「伸びしろ」に大きく期待されているようだ。
 まだこの若さ(作者は1992年生まれ)だ。今後さらに洗練された小説を書いてくれると思う。沖縄以外を舞台にした小説ではどのように持ち味を見せるのかも興味がある。
 あと、授賞式の2次会にウルトラマン柄のジャンパーを着て現われるほどウルトラマンが好きだと言うオーガニック氏の「ウルトラマン愛」が作品の所々に現れているのが良かった。いつかウルトラマンの小説とか脚本とか手がけてくれないかなあ。

[読書]Boichi作品集 HOTEL

 

Boichi 作品集 HOTEL (モーニング KC)

Boichi 作品集 HOTEL (モーニング KC)

 

 

 2030年代、人類による環境破壊の結果、地球は気温上昇に見舞われていた。もう取り返しのつかないところまで来てしまっており、どうがんばってもやがて地球は人類の住めない惑星になってしまうだろう。127光年の先に移住が可能かもしれない星が見つかったが、そこに到達するのは17万年後だ。
 自らの罪を記憶するために、人類は「塔」を建設する。人類以外の生物のDNAを保存するために。それは一見無意味な行為のように見えたが、人類が地球を後戻りできない状態にしてしまった責任を負うために必要な事だったのだ。
 やがて生物のDNAを保存した塔は「ホテル」と呼ばれるようになり、「支配人」である人工知能は人類が消え去った後もただひたすら「チェックアウト」の日を待ち続けた。そんな日がくる訳はないのだが……。

 

 韓国出身のマンガ家Boichi(ボウイチ)が雑誌「モーニング」等に発表した短編を集めた作品集。「全てはマグロのためだった」が創元SF文庫の年刊日本SF傑作選2008年版『超弦領域』にコミックとして唯一収録されるなど、SF界でも注目を集める作者のSFマインドが味わえる一冊だ。

 『超弦領域』ではSFに対する思いを切々と語った熱いコメントを寄せ、自身がSF者である事を知らしめたBoichi。本書はSF界の巨匠アーサー・C・クラークにささげられており、5編の短編と4編の描き下ろしショートSFが収められている。

 

 表題作は人類の滅亡後も孤独に地球上の生物のDNAを保管し続けるコンピュータの独白とともに、人類の愚行とそれでも希望を捨てない人工知能の奮闘を壮大なスケールで描き出す傑作。無意味に思える目的のために愚直に堅実に仕事を続ける「支配人」が報われる日は来るのか。

 あまりにも胸が詰まるようなストーリーだが、人間が体験できないような雄大な時間の流れを目撃できるのはSFコミックならでは。そしてラストにはちょっと得がたい感動がある。

 

 「PRESENT」は、クリスマスの季節を舞台に描く切ない作品。心臓疾患により意識不明に陥った彼女が目覚めた時、世界は何か違和感を感じさせるものだった。どうしても夫にプレゼントをあげたかった彼女は何があげられるかを必死に考える。早くプレゼントを渡さなければ手遅れになるような気がしたのだ。

 嘘を通して守られる夫婦の絆。全てを失っても守りたいもの。男女の愛は脆く危ういものだが、自らが苦痛を被ってでもその愛のために用意したプレゼントとは。ラスト、主人公の姿に心を打たれる。

 小ネタとして「HOTEL」とのリンクも仕込まれていて、それが物語の背景を鮮明にする。そしてそれに気づいた読者はさらに物悲しい気持になるだろう。

 

 前述の「全てはマグロの~」はマグロが絶滅した地球が舞台。幼い頃に最後のマグロを口にした男は、あの美味しさをこの地球に取り戻すためにあらゆる手を尽くすのだった。「マグロが食べたい」という超日常的な願望から宇宙スケールのSFに発展していく過程は圧巻。年刊日本SF傑作選に選出されるのも納得の作品。

 あまりにご都合主義な展開はギャグを交え描写されるけど、正体不明の情熱に何だか読者も熱くなるだろう。マグロが食べたくなる一作。これもちょっとだけ「HOTEL」とのリンクが仕込まれている。あと作中で語られる「ネズミ」の話は科学の持つ本質をさりげなく語っている。

 

 「Stephanos」は神話的世界観を現代に映し出す重い作品。グロ描写も多くこの雰囲気が苦手な人には受け付けない作風だと思うが、最後で作中に仕掛けられた数々の伏線が繫がり圧倒的な迫力で新世界の到来を告げる。

 なんだかぶっ飛んでる内容なので、これだけ読むとこの作者なんかやべーなと感じるかも。しかし次の作品ではさらにとんでもない展開になる。

 

 オールカラー作品「Diadem」は異世界で巨大帝国に闘いを挑む少女の物語。神話的世界は作者の頭の中で強固に出来上がっているらしく、この世界を救うために殺戮の限りをつくす少女の運命が描かれる。様々な読み方はできると思うが、個人的には正直これ系のマンガは苦手だったりする。

 ともあれ前半のガチガチのSF作品から最後のファンタジー的な世界まで幅広い振れ幅で現実離れした世界を描くセンスは驚くべき力量。

 

 全体的に人が持つ「想い」や「強い気持」が世界を動かすような傾向があって、それが人間(人間以外も)のいじらしさや弱さ、愛しさを鮮明に浮かび上がらせている。ビジュアルイメージが強烈なのでどれも脳裏に残ってしまうが、やはり読みどころはその巨視的な視線と人間愛だ。
 描き下ろしのショートSFは肩の力を抜いて楽しめるライトな作品だけどどれもインパクトのある作品。こちらも必読。

[読書]いま集合的無意識を、

 

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

「しかしフィクションなら、小説という<虚構>にすれば、それができる。意識的に嘘を語るというのではない。どのように読まれようがかまわないという覚悟で書かれるのがフィクションであり、小説というものだと、ぼくが言いたいのはそういうことだ」

 

 伊藤計劃という作家は34歳という短い生涯のうちわずか2-3年間を商業作家として過ごした。しかしその長くない活動期間の中で世界水準のSF作品を発表し、2000年代の日本SFを代表する作家となった。
 死後も作品が海外で刊行されたり、冒頭のみ遺された未完の遺作『屍者の帝国』を盟友である芥川賞作家・円城塔が完成させ更にアニメ映画化されるなど、未だに様々な分野で影響力を遺している。死してなお忙しいとは気の毒な気もするが、早すぎた死はそれだけ悔やまれるのだ。
 そして80年代から日本SFを一線で牽引してきたベテランSF作家・神林長平伊藤計劃から大きな影響を受けた1人らしい。

 

 インターネットのコミュニケーションサービス<さえずり>を利用するあるSF作家は、<さえずり>のタイムライン上に奇妙な書き込みを発見する。それは彼に直接語りかけてくるようだ。やがてSF作家はそれが伊藤計劃の書き込みである事に気づく。

 この本の表題作「いま集合的無意識を、」(2011)は、明らかに神林自身を主人公とし、フィクション上で神林と伊藤計劃が対話する実験的な私小説……いや私SF小説である。

 <さえずり>(言うだけ野暮だがもちろんTwitterのことだ)に出現した伊藤計劃は神林と対話をするが、もちろんそれは小説執筆当時の伊藤計劃ではない。よって神林は<さえずり>上の伊藤計劃と共に、小説執筆当時の伊藤計劃について語りあう事になる。奇怪な対談はSFの、小説の、フィクションというもののあり方について徐々に迫っていく。

 作中の言葉によれば神林自身は伊藤計劃の作品を刊行直後は読んでいなかったらしい。文庫版が刊行された後にようやく読んだそうだから、かなり後の話だ。だから死後ずいぶん経ってからこんな小説を発表したのか、とファンは苦笑いかも知れないが、神林がこのタイミングで伊藤計劃と対話し始めたのには理由があるようだ。

 

 2011年3月11日。この国を混乱に陥れた大災害が東日本を襲った。都市は壊滅し原発が世界に恐怖を与えた、あの未曾有の災害。想像を越えた現実についてSF作家は語るべきだと僕は思っているし、実際それに対する答えとも言うべき単行本『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)が2011年8月に刊行されていたりするが、神林はそれを真っ向から否定する。「SF作家はどのような社会自然現象についても応答する義務など負っていない。(中略)SF作家の責務は一つだけだ。新しいSFを創ること、新作を書くこと、ただそれだけだ」という。

 しかしその衝撃的な体験に折り合いをつけることとフィクションを語る作家であるという立場は苦悩を伴うことだったに違いない。だから伊藤計劃に救いを求めたのだ。

 

 それを都合がいいと嗤うこともできるだろう。何だかんだ言っても中年作家の独り言じゃねえかと斬って捨てることも可能だろう。この作家の言葉に意味を見つけ出すかはそれこそ読み手次第だろう。神林自身が作中でそう言っているのだから。
 あの『屍者の帝国』を完成させた円城塔は出版元のウェブサイト上でこの作品に対する反論ともとれる発言をしている。死んだ人間の事で言い争っても答えは出るはずもない。それぞれの言葉を読んで自分で判断してみるしかない。

 それにしてもなぜこの小説のタイトルは「、」で終わっているのだろう。まだ語っている途中だからだろうか。だとしたら、その続きは神林のその後の長編作品にあるのかも知れない。

 

 本書には「いま集合的無意識を、」以外に「ぼくの、マシン」「切り落とし」「ウィスカー」「自・我・像」「かくも無数の悲鳴」の5編の短編を収録。全作品を通すと、クラウド社会を予見したような「ぼくの、マシン」(2002年執筆!)をはじめとして、なんらかの共通テーマが浮かび上がってくるようでもある。これらは1996年から2011年にかけて書かれたものだが、その内容から作者の先見性と問題意識を再認識させられ驚いた。
 観念的で難解なものも多いので個人的にはなんかSFファン以外には薦めにくい神林作品だが、この本は全体的にかなり読みやすい方だと思う。

 フィクションの可能性とは何だろう。それは震災後の世界で改めて問い直されるべき問いであり、答えは読み手個人に委ねられている。

[読書]すべてがちょっとずつ優しい世界

 

すべてがちょっとずつ優しい世界

すべてがちょっとずつ優しい世界

 

 

 とある小さな島の、誰からも忘れられた小さな村。暗闇に包まれた「くらやみ村」は静寂に満ちている。数少ないが住人も動物もおばけもいる。朝が来ない村は常に暗く静かで、夜空にはオーロラが輝くがそれ以外は何もない。質素な生活の中で、それでも住民たちは年に一度の村祭りを楽しみに、満ち足りた毎日を暮らしていた。

 そんなある日、村を大災害が襲う。日々の生活もままならなくなった村は以前「街」の人から持ちかけられていた「ひかりの木」の植樹に乗り出す。村に光を灯すことは許されないことだったが、これで村は豊かになれるのだ……。

 

 コミカルだけどどこか毒味のある画風で多数の作品を発表しているマンガ家・西島大介が2011年~2012年にかけて雑誌「モーニング・ツー」に発表した作品の単行本化。東日本大震災以降、多くの作家がそれをテーマに作品を発表してきたが、このマンガもその一つ。大胆に省略された画風は一見低年齢向けの柔らかい物語を想像させるが、中身は非常に静謐で深遠な想いが描きこまれている。

 悩みぬいた末小さな子供のために「ひかりの木」受け入れを決断する村長。寓話的ストーリーとはいえその姿は原発との関係に苦悩し続ける福島の人々の姿を容易に想像させる。デフォルメされた絵柄だからこそ切実さが迫ってくる。

 みんな、誰かのために何かを思って生きている。動物も、自然も、おばけさえも。そう、みんながちょっとずつ優しい世界。だがその世界は緩やかに破滅への道を歩み始めていく。みんなが良くしようとした世界は。

 だから、このマンガは小さな小さな祈りの物語だ。密やかで優しくて、寂しい祈りの物語なのだ。

 

 広島に暮らす西島大介にとって、東日本大震災はどんな影響を出来事だったのだろう。僕らには知りようもないのだけど、日本中が悲しみと祈りに包まれたあの災害の記憶はこのマンガ家にもきっと大きな影響を与えたのだろう。広島から福島へ。核の脅威に翻弄された2つの都市に想いを寄せつつ、マンガ家が描き出した優しい物語。

 主軸となるストーリー以外にも、村の炭鉱がたどってきた歴史や村長の過去など枝葉の物語にもドラマチックな展開が容易されているが、それらは極力省略されて描かれている。シンプルな画風に無駄を削ったストーリー。その描き方はあまりにも重い村の歴史をそっと語りかけてくれるので、僕らの心にもすっと入り込んでくる。

 

 ひかりの木に何かが起きた途端、ずっと無視してきたくせに「大変なことになった どうしてこの村に あんなものを植えたのか?」と文句をつける老科学者。恩恵を十分受けておきながら「ぼくはまえからあの木を好きじゃなかったな」と語るピアニスト。3人組の「かぼちゃさん」たちはいつも一緒に行動しているが、一人だけ違う意見を持つかぼちゃさんはなんか居心地が悪そうだ。

 そんな暗喩というにはあまりにもストレートな現実世界の投影に、読者は考えさせられるところが多いだろう。

 

 西島大介は自身のコミック「世界の終わりの魔法使い」の公式ブログにおいて本作にも触れており、<「こういうものも僕は描けたのか」と、不思議な気分。連載を経て形になった単行本は一冊で完結ですが、このタッチ、この世界はなんとなく将来ずっと描き続けるのではと漠然と感じています。それがマンガの形をとるのかどうかまだわからないけれど・・・>と述べている。

 この本では最後の最後に村の「再生」への片鱗を見せて終わるが、具体的な将来像は不明なままだ。不安に満ちたラストではあるが、この作者の言葉を見て少しだけ希望を感じた。現実の世界はあまり優しくなくて、暗い未来のビジョンしか見えてこないだけに余計にそう感じるのかも知れない。
 辛くても悲しくても人々の暮らしは続いていく。破滅を描くのが今は精一杯なのかも。でもこの物語は続いてくのだろう。

 

 この本は帯が2重に巻かれており、最初の帯はキャッチコピー等が描かれたいわゆる普通の帯である。2番目の帯は大きめの帯で、村のみんなのイラストが描かれている。この2番目の帯を外すと本来のカバーがすべて見えるのだが、そこには村のみんなが消え村長だけが残されている。寂しい雰囲気のカバーを見ていると胸が締め付けられるが、さらにそのカバーも外すと表紙にはおばけたちとオーロラが描かれている。造本にも深い意味が隠されている。第3回広島本大賞受賞作。

 

 またこの本と同時にリリースされたコンピレーションアルバム「どんちゃか ~0歳からの電子音楽シリーズその1~」は、ボーカロイドレーベル「GINGA」が子供たちに電子音楽の世界を紹介するために立ち上げたCD+マンガの新シリーズの第1弾。西島大介のマンガがボカロとコラボレーションしており、「すべてがちょっとずつ優しい世界」のスピンオフとして描かれた作品が収録されている。

[読書]バーコード革命

 

バーコード革命

バーコード革命

 

 

 僕と同世代の人ならきっと記憶にあると思うんだけど、僕らが子供の頃、「バーコードバトラー」というゲームマシンがあった。

 1991年にエポック社が発売したもので、本体にバーコードを読み取らせると、その情報を解析してキャラが生成されるというものだ。ユーザーはこれらのキャラ同士を対戦させて勝ち負けを競うのである。もちろんバーコードによってキャラクターの強さは変わってくるから、当時の子供たちは強いバーコードを求めて様々な商品のバーコードを切り取ったものだ。

 バーコードというどんな商品にもついているシンボルを、自分のオリジナルキャラにする事ができるというのが斬新だった。僕は持っていなかった(買って貰えなかった)けど、電子ゲームといえばテレビゲームが全盛だった当時の市場に、大きな反響を巻き起こした商品だったといえる。

 

 バーコードバトラーの熱気はいつの間にか収束していったけど、この本『バーコード革命』を見かけた時にあのワクワク感を何となく思い出してしまった。経済社会で生まれた合理化の象徴であるような味気ない記号「バーコード」を、ちょっとした工夫で夢のあるアイテムに変えてしまう手腕は、日常をちょっと楽しく暮らすコツに繋がっているのかも知れない。

 

 この本は、デザインバーコード社が産み出したその名の通り軽妙なデザインが施されたバーコードが多数収録されている楽しい本。

 デザインバーコード。一部の商品では現在すでに流通しているので見た事のある人も多いかもしれない。バーコードの一部が人やモノの形になっていたり、大きな図柄の一部にバーコードが嵌りこんでいたりする。

 なんとなく感覚的にわかると思うのだけど、バーコードはあのシマシマの部分を機器で読みとる事さえできれば、あとは意外と自由にデザインの幅を持たせることができるのだ。簡単そうに見えるけど、そこに気づいて着眼点を置いたのは凄い発想力だと思う。

 

 本書によるとデザインバーコードが初めて採用されたのはサントリーの飲料「燃焼系 アミノ式」(CMが流行ったなあ)と「健康系 カテキン式」だそう。

 そこにはバーコードを使って色々な体操にチャレンジする体操のお兄さんが描かれていた。時には果敢に、時には必死に、大真面目なそのバーコードは、気づかない人も多かったけど、買った人にほんのちょっとだけクスッと笑いを届けてくれた。

 ここにはそのサントリーでデビューしたデザインバーコードの他に、企業への「提案」としてまだ商品化されていないデザインバーコードが紹介されている。例えば「メルシャン」ではバーコードがワイングラスの形になっている。ピザーラのバーコードはとろけるチーズの一筋一筋だ。「山手線」のバーコードは線路の形をしている。

 「山手線」のバーコードって何なんだかよくわからないけど、そんなものも収録されている。見ているうちに現実的な問題はどうでもよくなって、楽しいバーコードが作れればいいじゃんと思ってしまう。ちなみに以上はCHAPTER01(第1章)に収録されている「企業も笑ったデザインバーコード」だ。

 

 こんな調子でCHAPTER02には「飼い主募集中のデザインバーコード」が掲載されている。シャンプーのバーコードはもちろん女性の綺麗なサラサラヘアーだし、カーステレオのバーコードはスペクトラムアナライザーみたいだ。

 この他にもCHAPTER03には「あったらいいな、こんなデザインバーコード」、CHAPTER04には「発信するデザインバーコード」を収録。

 「あったらいいな~」には沖縄をテーマにして首里城を模したバーコードが掲載されているし、「発信する~」には米軍基地をテーマにフェンスを模したバーコードも掲載されているのが沖縄県民としては気になるところ。

 この章では他にも自殺防止やホームレス、動物愛護、地球温暖化など何気に硬派な社会問題をバーコードを通じて訴えている。

 

 意外にというか下ネタものも結構多くて、こんなの商品化できる訳ないから完全にお遊びだろうね。でもこういう遊び心は大好きだし、そこからアイディアが拡がりそうな気もする(多分)。

 それぞれのバーコードに付された一言コメントも洒落ていて、さすがデザイン系のクリエイティブな集団だなあと思わせる。「ギター」については<音のないコードです。>、「青春旅行キップ」には<オトナになるって、長い旅を始めることなのかもしれない>なんてコメントされていて、そのまま製品のキャッチコピーに使えそうだ。

 

 思えば僕が子どもの頃、本にバーコードが付く事になった時を思い出す。確か本にバーコードってのは装丁の美しさを損ねるんじゃないかと少し議論になった。今ではどの本にも普通についているバーコード。工夫次第でまだまだ楽しめるのである。

 ちなみにこの本についているバーコードは何の形だろう? 実は「しおり」の形をしている。しおりが示す金額は本体価格1,000円(税別)。厚さの割にリーズナブルです。

[読書]ホノルル、ブラジル 熱帯作文集

 

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

 

 

 見知らぬ土地を旅する事には高揚感が伴う。それが外国だったりすると、言葉が通じない不安も相まって余計に非日常的な気分を盛り上げる。

 本書の著者・管啓次郎氏は、翻訳者、比較文学者、詩人として活躍しており、サン=テグジュペリ星の王子さま』の翻訳を角川文庫から刊行したりしている。

 本書には雑誌等に掲載された38編の散文と、書き下ろしのあとがき的文章が収録されている。

 

 テーマは旅、言語、食、音楽など多岐に渡る。「熱帯作文集」のサブタイトルからもわかるように、異国の地に足を踏み入れた際の話題が多いが、世界の中での自分の位置を客観的に分析する視点には冷静さと謙虚さが感じられる。

 言葉を専門としているだけあって文章は自在で非常に端正だ。

 

<風を求めて走ってゆくはずなのに、「風防(ウインドシールド)」によって風を避けずにはいられない、この気弱な逆説。賭けてもいい。世界が終わるときには、自動車のフロントグラスにむかって消失点から次々に湧き上がり飛びかかってくる、流動する光の面のように終る>(p36)

 

 みたいな文章がさらっと出てくるのが印象的。

 <けざやか>(p88)とか<巒(やまなみ)>(p106)なんて言葉も僕は普段使わないので、こんな言葉があるんだなあと凄く勉強になりました。砂漠の事を「沙漠」と表記するのも恐らく意味があるのだろうな。

 

 そんな鮮やかな言葉で紡がれる文章は、ラテンアメリカを中心に多くの国の言葉や文化、概念を取り上げている。

 例えば本書冒頭に登場する<獲得された嗜好(アクワイアード・テイスト)>という言葉。はじめは奇異でなじめない味だったものに、少しずつ親しんで、やがて大好きになる、といった経過を含んだ言葉らしい。この「獲得された嗜好」の概念は本書全体に貫かれた思想と重要な関わりがあり(だからこそ冒頭に持ってきているのかも知れない)、人類の発達と移動の歴史の中で<人の味覚は一世代で完全にとりかえることができる、それどころかときにはほんの数日で大きく変わる>(p31)ことを我々に思い知らせるのである。

 そんな事を考えた時に、<自分は何者なのか>(p32)という疑問は重い意味を持つ。

 

 他にも<reinhabitation>(p65)という単語は、著者流に言えば「ふたたび土地に住みこむこと」「自分自身がその土地に責任を持ってそこに土着化していく」ことを表す言葉だそうで、これも本書の根幹に関わる言葉だろう。

 そんな風に言葉によって世界を読み解こうと試みる中で、著者は「オムニフォン」という言葉を好んで使う。もともとはマルチニックの作家パトリック・シャモワゾーによる造語で、「すべての音響」を意味する。そこに著者は<一つの言語では世界を了解することはできないが、一つの言語が安定して完結し、閉ざされていることもけっしてない。よく見つめよく耳をすませば、どんなに小さな言語にも、すでに世界の全体が響いている>(p114)ことを見いだす。
 グローバル化だ英語公用語化だとか騒いでいる現代日本人の視野がいかに狭窄であるかを気づかせる。

 

 本書には沖縄の話題も登場する。友人がかけたCDはフォルクローレ風のイントロで、ボリビアのロックバンドかと思ったら言葉が全然わからない。なんとそれは宮古島の歌手・下地勇の『天』というアルバムで、何となく聴いた事のある沖縄方言とあまりに違うので非常に驚いたという。確かにあれは沖縄でも宮古の人以外はわからないだろうなあ。

 これを単純に標準語による方言の抑圧、という図式で捉えるのではなく、著者はこれもオムニフォン空間の一部として捉える。本書にはそんな姿勢が貫かれている。

 他にも西江雅之那覇を旅した時の文章についての書評も収録されている。

 

 9.11についても触れられている。ロンドンでニュースを見たという。歴史が永遠に後戻りできなくなったあの日、世界は様変わりしてしまった。

 クレオル主義を根底に、世界中を歩き旅した著者は我々に新たな視点を伝えてくれる。美味そうな食べ物や極上の音楽を通して、伝えてくれる。読むと旅に出たくなる本だ。

 

 しかし、どこを開いても綺麗な文ばっかりなので、紹介しようとすると引用ばっかりになってしまう……。

 収録されている文章は、発表時にはそれぞれタイトルがあったようで、巻末の初出一覧で確認する事ができる。見る限りいいタイトルばかりなのだが、本書ではなぜかそれらがすべて省かれ章番号がふられているのみだ。元のままの方が分かりやすいし読みやすいと思うのだが、これも何か意図的なものなのかも知れない。

 巻末のあとがきっぽい文章を読むと、著者の本の中では割と読みやすい方らしい。学生にも読みやすいように意識したという。という事はこの本は著者の入門編として最適なのかも。

[読書]アルゴ

 

アルゴ (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) (ハヤカワノンフィクション文庫)

アルゴ (ハヤカワ・ノンフィクション文庫) (ハヤカワノンフィクション文庫)

 

 

 大使館や領事館といった在外公館は、これまで様々な政治的事件の舞台となってきた。僕は1996年に発生したペルー・日本大使公邸占拠事件が記憶に新しいけど、この時は人質が解放されるまで4ヶ月もかかり、毎日ニュースを固唾を飲んで見ていたのを憶えている。

 ところが1979年に起きたイラン・アメリカ大使館占拠事件は人質が完全に解放されるまで何と444日を要している。この事件で特筆すべきは、大使館が占拠される直前に逃げ延びた人間が6人おり、その後CIAの極秘作戦により国外に脱出していたという点だ。

 2012年にアメリカで製作された映画『アルゴ』はこの作戦をベン・アフレック監督&主演で映画化したもので、第85回アカデミー賞作品賞を受賞している。

 

 これが映画化に向いていたのはその特異性のためだ。当時は明らかにされなかったが、何とCIAは6人の救出のために架空のSF映画製作をでっちあげ、そのロケハンクルーに偽装して脱出させたのだ。「アルゴ」とはその偽映画のタイトルである。

 本書はその作戦の指揮をとったCIA局員で偽装工作のスペシャリスト、アントニオ・メンデス自身が当時を回想し作戦の全貌を明らかにしたノンフィクション‟ARGO:How the CIA and Hollywood Pulled off the Most Audacious Rescue in History”の邦訳だ。作家・ライターのマット・バグリオが共著者として参加している。

 映画と同名のタイトルだが、映画はこれとは別に雑誌に発表されたルポルタージュ等を原作としており、正確には本書は原作ではない。しかし映画版と比較する事で当時の国際情勢やアメリカ国内の様子がより子細に理解できる。カーター大統領の弱腰の対応により政権が支持を失っていく過程、大使館の人質救出作戦イーグル・クロウ(鷲の爪)の失敗といった背景を知っておくと、映画もより楽しめるはず。

※ちなみに著者は1967年から74年までの7年間、沖縄やバンコクなどに駐在していたそう。沖縄県民の僕としてはこんな本を読んでいていきなり沖縄が登場すると面食らってしまう。

 

 映画版と本書の最も大きい相違は描き方の比重の違いだろう。映画版はやはり画面的な派手さが求められるから、始まってしばらくするとアルゴ作戦を実行する段階に突入してしまう。まあ偽映画の製作という事実を映画で描く、という所に面白さがあるわけだし、こういう演出も仕方ないのだろう。

 対して本書の方は事件発生の経過からCIA内での様々な作戦案の検討、下準備等がじっくりと描かれる。だから実際にアルゴ作戦を実行するシーンは本書においてはむしろクライマックスである。何しろ著者のメンデスがイランに降り立つのは本全体の約8割が過ぎた所だ。

 その他ストーリーも大きく変更されていたりする。映画版は「事実に忠実な映画化」を売りにしていたが、実際はかなり脚色されている。まあ映像的に面白くないといけないからね、しょうがないだろうなとは思う。

 

 冷静に考えてみたら当たり前なのだが諜報員の活動なんて大半は地味なのだ。気づかれないように実行するのが目的なのだから。

 だからこそその裏をかいたのがアルゴ作戦の驚くべき点である。やはり映画撮影班に偽装するという作戦は突飛すぎる訳で、<私たちが向き合っているのは普通ではない状況だ。だとしたら、いっそ、地味な設定とは反対の方向に進んでみてはどうだろう?最高に派手な履歴なら、まさかそれが偽装工作用に作られたものだとは誰も思わないのではないか?>(p188)という部分にかなり思い切りが必要だったのが伺える。政府の中には<疑念を抱く人々がいるということだった。大胆すぎる、無鉄砲すぎる、複雑すぎるといった理由なのだろう。私としては、それこそが成功の秘訣だと思っていたのだが>(p239)という。

 元々この救出作戦が困難だったのは、救出対象の6人の年齢や性別がまちまちだった点だ。また一般人が作戦をスムーズに遂行するには本人らが乗り気で参加できる作戦でなくてはならない。その意味で偽映画作戦は実は突飛に見えてなかなか巧妙な作戦だった。

 

 もちろんハッタリだけで国家の作戦が遂行できる訳もなく、実際にハリウッドの有力者の協力を得て映画製作会社を設立、製作発表までしてしまうのだ。なんか筒井康隆の『富豪刑事』みたい。事情を知らない関係者から映画の企画が本当に持ち込まれたりしたそうだ。

  SFファン的に驚くのはこの偽映画『アルゴ』の原作がロジャー・ゼラズニイの小説『光の王』だったという点だろう。確かにインド神話的世界観のこの小説ならイランでロケハンしてても不自然ではないかも。もし実際に映画化が実現していたら……とか想像してみる。

 

 それにしてもこんな機密も一定期間を過ぎたらあっさり公開してしまうアメリカという国が凄い(しかも映画化してしまう)。本書にはスパイ活動の一端が垣間見える描写も多く、非常に興味深い。歴史の裏側で進行したスリリングな「嘘」は、今の世界をどう形作ったのだろう。本書は現在の中東とアメリカの関係を考える上でも参考になるかも。