ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]グラン・ヴァカンス 廃園の天使I

 

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 僕が子供の頃はファミコンの全盛期で、ロールプレイングゲーム(RPG)なんかは友人達とどこまで進んだか競うようにプレイしたものだった。

 で、RPGで遊んでいるとよくあるのだが、町や村でそこらへんにいる住人に声をかけるとプレイヤー(つまり僕)にとってヒントになるような事を教えてくれる事がある。時間を置いてその人に声をかけると、また同じ事を言う。三たび声をかけても同様だ。

 この人はこのヒントを言うためだけに作られたキャラなのだ。そんなキャラクターを見ていると不思議な気持になる。もし僕がこのゲームを2度とプレイしなくなったら、彼らはあの町で何を考えて何のために生きていくんだろう。

 ……と言っても、もちろん彼らは生きている訳ではない。あくまでゲームの中のキャラである。しかし冒険を進めるうちにその世界に入り込んで、こんな脇役キャラにも感情移入してしまう事は稀ではないと思う。

 

 2002年9月、長きに渡って沈黙していたSF作家・飛浩隆が唐突に長編小説『グラン・ヴァカンス』を発表し読者を驚かせた。

 飛浩隆は80年代から作家活動を行っていたが兼業作家という事もあり発表された作品数は評価は高かったもののあまり多くなく、しかもそれらはどれも短編か中編だった。よってこの作者の小説は一冊の本として刊行されたものが少なく、作品に触れる機会自体が少なかったので若いSFファンの間では半ば伝説上の存在になりかけていた。作者が本書の前に作品を発表したのは1992年。10年の沈黙を破って初の長編を刊行したのである。

 

 ネットワークのどこかに作られた仮想リゾート「数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)」。本来は人間が現実では味わえない体験を求めて訪れる仮想空間であるが、「大途絶(グランド・ダウン)」と呼ばれる原因不明の異変以来なぜか人間が訪れない日々がもう1000年も続いていた。
 人間は来なくなったが、その空間に作られたAI(人工知能)たちの日々は流れている。人間を楽しませるために作られたAIにとってその日々は自らの存在意義を揺るがすものであるが、しかし彼らにはどうしようもない。
 そうして「数値海岸」の一角にある「夏の区界」でもまた同じ夏の1日が始まろうとしていた。南欧の港町を模して造られたその区界で、今日もチェスの得意な少年ジュールは奔放な少女ジュリーと共に海に出かけている。同じ1日。美しい夏の日々。だが突然見慣れた風景は音を立てて崩壊した。いきなり出現した謎の存在「蜘蛛」が「夏の区界」を破壊し始めたのだ。
 AIたちの「存在意義」とは何か。蜘蛛を操る謎の男の正体は。AIたちと蜘蛛の絶望的な戦いが始まり、長い「夏休み(グラン・ヴァカンス)」は終りを告げようとしていた。

 

 冒頭、この物語は静かに幕をあける。目に飛び込むのは眩しいばかりの情景。若い男女の甘酸っぱい関係。デジタルな設定とは裏腹にそこに描かれるのは柔らかい光に満ちた儚くも脆い人々の人生だ。もう人間が訪れることもない仮想空間。打ち捨てられた浜辺。それでもいつかまた人間が来訪する時が来るのではないかとどこかで期待しつつ1000年に渡り同じ夏を繰り返しているAIたち。

 ネットワークの発達と共に生まれた仮想空間という概念は、そこに暮らすAIに一種の人格を見出させる。それに思いを馳せる時、我々は何とも妙な気持になるのではないだろうか。

 本書では読み手のそんな微妙な感情を巧みに刺激しつつ、物語全体をまるで一篇の詩のように織り上げている。こんな精緻な小説を書いていたらそりゃ10年くらいかかるよなあ、と長い空白期間も納得なのである。

 

 仮想空間に暮らすAIたちの物語、という設定自体は刊行当時でも既に目新しいものではなかったが、繊細に書き込まれたディテールとその胸を抉るようなストーリーは高く評価され、「ベストSF2002」国内篇第2位に選ばれるなど飛浩隆の鮮やかな「復活」は大きな話題となった。

 ハッとさせられるのは、読み進めるうちに「夏の区界」の実像が少しずつ明らかになっていく点である。この世界が何のために作られたのか。興を削ぐので詳しくは書かないが、それは明確な目的があり、そしてそこに暗示されるAIたちの悲痛な運命こそが仮想空間を舞台にして書かれた本書の白眉だと思う。

 

 この小説はAIの世界を通して人間を描いている。作者の描く美しい情景に酔ってしまい忘れそうになるが、本書の登場人物は全てAIである。つまり彼らは単なるネットワーク上のデータだ。登場人物全てがAIであるこの小説が、何よりも生々しく人間の性(さが)を浮き彫りにしている。

 終盤、AI対蜘蛛の激しい攻防の中で「苦痛」が重要な要素となって立ち現れてくる。剥き出しの他者を傷つけ、恐怖を与え、壊していく過程がこれでもかと描かれる。引き裂かれるように凄惨だが、息を呑むほど官能的なその様に読者は震撼するしかない。

 本書巻末の「ノート」によると作者は、“放棄された仮想リゾート”という主題のもとに、<清新であること、残酷であること、美しくあること>を心がけて執筆したという。そして<飛にとってSFとはそのような文芸だからである>と続ける。

 兼業でありながらこういう作家としての感覚を研ぎ澄ましている事に凄みを感じる。

 

 本書は2002年に「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」から単行本が刊行された後、2006年にハヤカワ文庫JAから文庫化されている。

 前述の「ノート」によればこの小説は、<〈廃園の天使〉の名で書かれる連作の第一作にあたる>そうで、作者自身は<おそらく三つの長編といくつかの中短編で構成されることになるような気が、なんとなくしないでもない(笑)>と述べている。

 ところが2006年に中短編集『ラギッド・ガール 廃園の天使II』が刊行されたものの、それ以降シリーズの作品は発表されていない。10年近くが経過しているが、この連作について作者はまたもや沈黙してしまったのが残念ではある。

 ちなみに2013年にはハードコアコンテンポラリーダンスカンパニー「大橋可也&ダンサーズ」によってダンス化されている。すいませんダンスとかあまり詳しくわからないのですが、SF小説がダンス化されるというのは珍しいように思います。

 ああ、それにしてもこのシリーズの長編が読みたいなあ。気長に待つしかないか。

 

<物語の登場人物は一ページめが捲られたその瞬間に、記憶を持つ。過去を所有する。物語が始まる前の記憶を、物語が始まるまさにその瞬間に、具備するのだ。だが、どこでその経験をしたのか。いつその記憶を蓄積したのか>(p69)