ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ

 

フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ

フクシマ・ゴジラ・ヒロシマ

 

 

 我が国はかつて2回にわたり原爆が投下され、深い傷を負った。それから60年以上後、今度は原発で世界史上に残るような事故を起こした。

 原子力とは人間にとって何なのだろう。我々は今でも「神の炎」に翻弄されている。

 日本で映画『ゴジラ』が公開されたのは1954年。同年に起きた「第五福竜丸事件」が映画製作に影響を与えたと言われている。水爆実験によって甦った太古の怪獣が日本を襲う、というストーリーに様々な意味を読み取ることは容易だ。 

 それから60年。2014年にはアメリカ映画『GODZILLA』が公開された。怪獣はサンフランシスコ湾へ出現する。世界の人々の目にゴジラはどのように映るのだろう。

 

 本書は東日本大震災の直後に日本を訪れたフランス人作家クリストフ・フィアットが見た光景の記録である。2011年10月にフランスで刊行され、2013年3月11日に邦訳出版された。
 2011年4月16日来日。福島県いわき市を訪れた彼は津波の残滓の中、ゴジラの咆哮を聴く。
 そしてゴジラを巡る旅が始まった。被災地で多くの人と話し、余震と放射能に怯えながらも広島を目指していく。人々の強さ、弱さを目の当たりにし、そこにポップアイコンと化した怪獣の影を追う。三島由紀夫昭和天皇、9・11テロ。戦後日本と世界のあり方を思索しながら。
 彼が繰り返し幻視する「上着の下にアロハシャツを着た軍人が、「FIRE」と書かれた手紙を落とす」イメージは何を意味しているのか? 判然としないまま、彼は日本を彷徨う。

 

 巻末で訳者が記しているように、本書は紀行文風小説である。「風」とわざわざ断っているのは、純然たるノンフィクションではなく、多くの部分を事実に依っていながらも作者の創作が時折挿入され、渾然となっているからだ。

 

<パリでは、3月11日以降、日本人は苦境に立ち向かえる強さをもった人たちなのだといわれていた。立ち向かうというのは、そう、確かにうわべを取り繕うという意味ではそうだろう。でも僕は日本人が強いとは思わない。ただここで生きて行く、なにがなんでも生きて行くしかないのだと覚悟を決めているに過ぎない>(p62)

 

 フィアットは作家であり演出家であり詩人、と多方面で活躍する人なのだそうだ。日本で訳されている著作は今のところ本書だけらしい。内容を聞くと震災を受けて来日したような印象を受けるが、実はこの時期の来日は以前から決まっていた事で、ゴジラについても元々興味を持っていたという。つまり震災後の日本でゴジラの影を追う事になったのは偶然なのである。

 ともあれ震災後は多くの海外著名人が既に決まっていた来日をキャンセルしており、また日本に滞在していた外国人が次々と脱出していたので、予定通り来日した点には彼の関心の高さが伺える。

 

 ご存知の通り、ゴジラは1998年にもアメリカで製作されている。ローランド・エメリッヒが監督したこの映画はその造形やストーリーの短絡さから日本だけでなくアメリカ国内でも酷評された。フィアットは本書で評論家の加藤典洋と対談しているが、これについて加藤は重要な指摘をしている。曰く、核実験によって生まれた怪物がその発端の地であるマンハッタンを破壊するのは<ゴジラに対する無理解の証左ではあるけれど同時にアメリカ人の広島に対する畏れの表れと見ることも可能>(p135)だという。

 だから、ブッシュ政権下のアメリカ人が、もともと主に原爆の爆心地を意味していた「グラウンド・ゼロ」という言葉を、世界貿易センタービル跡地の呼称として使い始めたことについて<原爆ドームをまったき人道のための普遍的モニュメントとして捉えている日本人に仕返ししたのかもしれない。恒久平和ならびに地球上のあらゆる核兵器の完全廃棄への願いを象徴するそれが大嫌いなのかもしれない>(p110)と語るフィアットの視点は鋭い。

 

 本書の原題は‟Retour d'Iwaki:Recit”。僕はフランス語は全然解らないけど、ネットの翻訳サイトなんかでいろいろ調べてみると「いわきへ回帰する物語」みたいな意味なのかな。
 単純に被災者に同情するだけではない。被災地の惨状をレポートするだけではない。異国から来たアーティストがそこに物語を見出し、捜し求めていくという点で、あの惨事を記録した書籍としては異色のものとして記憶されるだろう。彼から見た日本人のゴジラ観についての考察も興味深い。

 

<注目すべきは、ゴジラは単に実験で目覚めただけでなく、被曝してもいるということだ。(中略)そう、正真正銘、被曝した存在。広島の言い方を借りれば、ヒバクシャなのだ>(p96)

 

 ただ、最後の場面で著者が目にした事実は、本人にとっては驚愕だったのだろうが、日本人にはちょっと笑えるかも。