ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]ホノルル、ブラジル 熱帯作文集

 

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

ホノルル、ブラジル―熱帯作文集

 

 

 見知らぬ土地を旅する事には高揚感が伴う。それが外国だったりすると、言葉が通じない不安も相まって余計に非日常的な気分を盛り上げる。

 本書の著者・管啓次郎氏は、翻訳者、比較文学者、詩人として活躍しており、サン=テグジュペリ星の王子さま』の翻訳を角川文庫から刊行したりしている。

 本書には雑誌等に掲載された38編の散文と、書き下ろしのあとがき的文章が収録されている。

 

 テーマは旅、言語、食、音楽など多岐に渡る。「熱帯作文集」のサブタイトルからもわかるように、異国の地に足を踏み入れた際の話題が多いが、世界の中での自分の位置を客観的に分析する視点には冷静さと謙虚さが感じられる。

 言葉を専門としているだけあって文章は自在で非常に端正だ。

 

<風を求めて走ってゆくはずなのに、「風防(ウインドシールド)」によって風を避けずにはいられない、この気弱な逆説。賭けてもいい。世界が終わるときには、自動車のフロントグラスにむかって消失点から次々に湧き上がり飛びかかってくる、流動する光の面のように終る>(p36)

 

 みたいな文章がさらっと出てくるのが印象的。

 <けざやか>(p88)とか<巒(やまなみ)>(p106)なんて言葉も僕は普段使わないので、こんな言葉があるんだなあと凄く勉強になりました。砂漠の事を「沙漠」と表記するのも恐らく意味があるのだろうな。

 

 そんな鮮やかな言葉で紡がれる文章は、ラテンアメリカを中心に多くの国の言葉や文化、概念を取り上げている。

 例えば本書冒頭に登場する<獲得された嗜好(アクワイアード・テイスト)>という言葉。はじめは奇異でなじめない味だったものに、少しずつ親しんで、やがて大好きになる、といった経過を含んだ言葉らしい。この「獲得された嗜好」の概念は本書全体に貫かれた思想と重要な関わりがあり(だからこそ冒頭に持ってきているのかも知れない)、人類の発達と移動の歴史の中で<人の味覚は一世代で完全にとりかえることができる、それどころかときにはほんの数日で大きく変わる>(p31)ことを我々に思い知らせるのである。

 そんな事を考えた時に、<自分は何者なのか>(p32)という疑問は重い意味を持つ。

 

 他にも<reinhabitation>(p65)という単語は、著者流に言えば「ふたたび土地に住みこむこと」「自分自身がその土地に責任を持ってそこに土着化していく」ことを表す言葉だそうで、これも本書の根幹に関わる言葉だろう。

 そんな風に言葉によって世界を読み解こうと試みる中で、著者は「オムニフォン」という言葉を好んで使う。もともとはマルチニックの作家パトリック・シャモワゾーによる造語で、「すべての音響」を意味する。そこに著者は<一つの言語では世界を了解することはできないが、一つの言語が安定して完結し、閉ざされていることもけっしてない。よく見つめよく耳をすませば、どんなに小さな言語にも、すでに世界の全体が響いている>(p114)ことを見いだす。
 グローバル化だ英語公用語化だとか騒いでいる現代日本人の視野がいかに狭窄であるかを気づかせる。

 

 本書には沖縄の話題も登場する。友人がかけたCDはフォルクローレ風のイントロで、ボリビアのロックバンドかと思ったら言葉が全然わからない。なんとそれは宮古島の歌手・下地勇の『天』というアルバムで、何となく聴いた事のある沖縄方言とあまりに違うので非常に驚いたという。確かにあれは沖縄でも宮古の人以外はわからないだろうなあ。

 これを単純に標準語による方言の抑圧、という図式で捉えるのではなく、著者はこれもオムニフォン空間の一部として捉える。本書にはそんな姿勢が貫かれている。

 他にも西江雅之那覇を旅した時の文章についての書評も収録されている。

 

 9.11についても触れられている。ロンドンでニュースを見たという。歴史が永遠に後戻りできなくなったあの日、世界は様変わりしてしまった。

 クレオル主義を根底に、世界中を歩き旅した著者は我々に新たな視点を伝えてくれる。美味そうな食べ物や極上の音楽を通して、伝えてくれる。読むと旅に出たくなる本だ。

 

 しかし、どこを開いても綺麗な文ばっかりなので、紹介しようとすると引用ばっかりになってしまう……。

 収録されている文章は、発表時にはそれぞれタイトルがあったようで、巻末の初出一覧で確認する事ができる。見る限りいいタイトルばかりなのだが、本書ではなぜかそれらがすべて省かれ章番号がふられているのみだ。元のままの方が分かりやすいし読みやすいと思うのだが、これも何か意図的なものなのかも知れない。

 巻末のあとがきっぽい文章を読むと、著者の本の中では割と読みやすい方らしい。学生にも読みやすいように意識したという。という事はこの本は著者の入門編として最適なのかも。