ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]宗教が往く

 

宗教が往く〈上〉 (文春文庫)

宗教が往く〈上〉 (文春文庫)

 

 

<ああ。/まずい。/愛しちゃった。>(本書より)

 

 裕福な家に生まれたフクスケは、産まれもった巨大な頭が容姿を醜怪に見せていたが、彼の周囲はもっと奇々怪々な人で溢れていた。家族、仲間、他人。様々な人がフクスケの人生に登場しては去っていく。

 この物語は、フクスケが産まれてから数十年に及ぶ数奇な人生の記録である。

 

 松尾スズキが初めて手がけた長編小説は、雑誌「鳩よ!」の1998年11月号から連載が始まった。途中雑誌の休刊により「ウフ.」に移動し、完結したのは同誌2004年1月号。ざっと5年以上の時間をかけて執筆されており、その間に初の短編集(『同姓同名小説』2002年、ロッキングオン刊)が刊行されたりしている。連載中読者は「果たしてこの物語はいつ終わるのか?」という不安に苛まれながら読み進めることになった。
 結局完成した小説は単行本で約500頁、文庫本で上下巻という大作。そこには作者の自伝的要素が織り込まれ、これまでの作品とのリンクも多数登場。まさにその時点での集大成とも言えそうな小説であるが、読み手はその異様さに戸惑ってしまうだろう。

 

 まず表紙を開いてみる。最初に度肝を抜かれるのだが、「小説の前に」と題して作者がこの小説を書く理由が64頁に渡って語られる。演出家が小説という勝手の違うものに手を出すことについての考えと、嘘かマコトか偶然のタイミングが重なって執筆に至った経緯が語られるが、これだけで一本の短編を読んだような密度である。
 その後なんと頁数がリセットされて(1頁から再びカウントし始める)フクスケの物語が始まる。
 この回りくどいが無闇に面白い作者の手際によって、うんざりするような長い旅へと読者は同行せざるを得なくなる。

 

 物語が始まってからは文中に独特な言い回しやギャグが挟み込まれ、演出家の、というか松尾自身の個性かもしれないが特異な言語感覚が披露されていく。
 長期連載していく中で思いつきの展開も多い。奇想天外な運命。破天荒なキャラクターたち。だがそれでもストーリーは割とオーソドックスに語られていく。人物は丁寧に掘り下げられ、暴力とユーモアで物語は満たされる。
 一部破綻している部分もあるが、それでも終盤でなんとか辻褄を合わせようと作者が苦労している様は結構マジメだなと思わせた。ちゃんとそれなりのラストを迎えるのもそんな努力があってこそだ。

 

 しかし普通の小説家による小説を読み慣れた人なら、読んでいてある違和感を感じるのではないだろうか。僕も、すごく説明し辛いんだけどなんだろうこの感じ、と思いながら読んでいた。
 途中まで読み進めてようやく気がついた。作者は読者の視線を非常に気にしながら書いているのだ。読み手に「どう見られているか」を常に意識しているようだ。
 ここらへん舞台と文学という2つのメディアの違いが際立っているのかも。

 

 舞台は一方通行の要素が強いと思う。観客の反応によって俳優の所作が変わる、といったやりとりはあるだろうが、それでも観客は基本座って観ていれば時間が来て勝手に終わってしまう。
 しかし小説は一方通行なようで実は双方向性が強い。読者が飽きてしまえばその先は読まれない。読者にとってはその時点で終り、作者が用意した結末は消滅してしまう。読み手が積極的に小説に取り組む姿勢が無くては成り立たないから、作者と読者の間で意識下の対話が交わされる。
 だから松尾は時々言い訳めいた事をしつつ、それでも読者の興味をかきたてようともがいている。観客に放棄される恐ろしさを身を持って知っているからだろうか。
 無防備にそんな姿を晒すのは、ある意味で誰より真摯に小説執筆という仕事と向き合っているからなのかも知れない。

 

 物語になかなか宗教が出てこないので、本当に大丈夫かと思い始めた頃に宗教が始まる。宗教を笑い飛ばした小説と思わせて、あんまり宗教は重要ではない。スラップスティックで、言葉にいちいち破壊力があり、訳がわからないがそれでも純愛の小説である。

 この小説を読んだ後で、第134回芥川賞の候補になった『クワイエットルームにようこそ』なんかを読むと、まるで憑き物が落ちたようにすっきりと「まともな」小説になっている事に驚くと思う。単に小説を書く技術が向上したというだけではく、処女作で悪戦苦闘し執筆の苦悩を吐き出してしまった事で、精神的にずいぶん楽になったのではないか。これについて芥川賞の選考委員だった池澤夏樹は「読んだ人の7~8割が納得するが、危ない橋を渡ってほしい気持ちもある」と語ったそうだ。
 「小説は究極の表現手段」と言い切る松尾は、これからも危ない橋のギリギリの所を渡り続けると思う。

 

 2004年マガジンハウスから単行本刊行。2010年文春文庫から文庫版刊行。