ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]東京窓景

 

東京窓景

東京窓景

 

 

 いきなりちょっと感傷的な思い出話から始める。

 中学3年生の終わり頃、授業中に自分の席からぼんやりと窓の外を眺めていた。見えるのはいつもの運動場の風景。その時ふと、そうか、卒業したらこの窓から見える景色ってもう見る事ができないんだと突然気づいたのを憶えている。

 今思うと当り前の事で、そんな事にびっくりする事でもないのだけど、その時はそれにずいぶん驚いた気がする。

 中学生活の3年間、普通に目の前にあった風景が手の届かない所に離れてしまうという現実。人が持つ視点というのは無限ではなく有限であるということ。僕はその事に気付き驚いたのだ。

 そして、だからこそきっと人は大切でプライベートな光景を写真という手段で残すのだろう。

 

 『東京窓景(とうきょうまどけい)』 は、『TOKYO NOBODY』(リトル・モア)で2001年度写真家協会新人賞を受賞したフォトグラファー、中野正貴による写真集だ。そこに写し出されているのは、様々な部屋の窓を通した東京の風景である。

 例えば表紙に使われている写真。隅田川のそばにある、あの有名なアサヒスーパードライホールの「炎のオブジェ」が窓の外に圧倒的な存在感を持って佇んでいる。でもその窓枠の内側には布団が敷かれた部屋があって、本や置物がちょこちょこと置かれている。この部屋に居住する人にとっては、その窓から見る「炎のオブジェ」こそが日常なのだろう。

 日本中の人がみんな知っているあの「炎のオブジェ」なのだけど、この部屋から見るそれは、こうして写真として切り取られなければ恐らく日本中のほとんどの人が見る事はできなかった光景。 

 

 そう考えると何だか不思議だ。何もそんな特別なものがなくてもいい。今、あなたがいる場所 ――家だったり学校だったり職場だったりするだろうか―― 、そこからふと顔を上げて窓から見た風景は、世界中の大半の人には見ることのできない風景なのである。十代の頃、僕が教室からぼんやり眺めていた光景のように。
 そして、日本中、世界中には、あなたが一生目にすることのできない「窓景」が恐らく無数に存在している。

 

 中野正貴自身が巻末で考察しているのだが、部屋であれ車であれ電車であれ、そこからの窓ごしの風景は、フレーム(額)付きの映像として我々の脳裏に記憶されているはずなのに、後々思い起こす時、そのフレームは大概知覚されない。そこで意識的に中野氏は「フレーム」を写真の中に焼きつける。部屋の照明、空き缶、弁当……。人々の日常生活がそこにはある。窓の外には有名な風景が広がっていたりするのだけど、日常生活ごしに見えるそれらは言いようのない異質さを持つ。

 窓(フレーム)の外には大勢の人や車が存在していたりするのだけど(窓の清掃をする人まで!)、内側に人が写っている写真は一枚もない。だからこそ逆に内側に想像の余地が大量に残されているようでもある。

 

 大学生の頃、綺麗な景色や夜景を求めていろんな場所を車で友人たちと回ったものだ(良いデートスポットを探そうとしたのである。その努力はほぼ無駄に終わったが)。その時、僕らのような人が、つまり誰でもが行けるようなパブリックな場所からの風景なんて実は開拓され尽くしていて、本当にとっておきの美しい風景なんてのは個人の住宅とかそういう所からしか見えないのではないかと話し合ったことがある。実際どうなのかはわからないが、そんな空想が「部屋」という小さな箱に膨らんだ。

 

 個人的な東京の映像。私たちの知らない東京。窓(フレーム)の内と外。都市に新たな視点を加える写真集である。NHKブックス『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(東浩紀北田暁大)では、装丁にこの写真集から作品が使用されている。

 

 窓が公共とプライベートの境目なのだとしたら、そこから見える風景には個人的な記憶が付随し、人々の多くの思い出が残されているはずだ。国中が大騒ぎになるような大きな出来事が起きた時もそこには極めて個人的な記憶が蓄積されていくだろう。

 だが例えばあの震災の時なんかは、多くのプライベートな風景が破壊され、押し流され、二度と見ることはできなくなってしまったのだろうか。見る人がいなくなってしまった部屋もあるのだろうか。

 とめどないが、そんな事を考えてしまう。

 

 ちなみにAmazonのデータではこの本の発売日が2000年11月15日になっているのだが、奥付によれば初版発行日は2004年11月20日である。