[読書]残像に口紅を
筒井康隆といえば日本SF界の黎明期から活躍し、小松左京、星新一と共に日本SFの御三家と呼ばれてきた。
「SF星は星新一が開拓し、小松左京がブルドーザーで地ならしをして、筒井康隆がスポーツカーで乗り付けた……(他にも様々なバージョン有)」という例え話は有名だが、そんな風に半ば日本のSF界では「歴史上の人物」になりかけている人物が今でもバリバリ現役で活躍しているのは素直に凄いと思う。2012年には小説『ビアンカ・オーバースタディ』を発表し、「そうか、昔の筒井康隆ってラノベだったんだ!」と読者に認識させるなどその作風と人柄は相変わらずである。
そんな筒井康隆が純文学の形を借りつつ、実験的な『虚航船団』『虚人たち』『夢の木坂分岐点』等を発表していた1980年代に刊行されたのが、本書『残像に口紅を』である。
日本には俳句や短歌という文化があり、言葉を極限まで切り詰めることで表現の限界に挑戦してきた歴史がある。制限がある中でいかに豊かな世界を構築するか。日本にはそんな文化が元々あったから、Twitterのような短文投稿サイトもあっという間に使いこなしてしまうのではないかと思う。
そしてこの小説で筒井康隆は「五十音の消滅」というとんでもない状況を設定し、日本語表現の限界に挑んでいる。
主人公の作家はあるテーマを設定し「虚構」を構築することを決意する。もしひとつの言葉が消滅した時、惜しまれるのは言語かイメージか。それを検証するために彼は誰も試した事の無い仕掛けを設定する。それは世界から言葉が消えていくという状態。
比喩でも冗談でもなく、本当に筒井康隆はこの小説からひとつひとつ言葉を消していってしまうのだ。一章につき1つ、五十音から言葉が消えていく。後々破綻が生じないように冒頭では細かなルール作りまで行っている。
例えば「ぷ」という音が消えてしまえば「ぷ」がつく言葉もこの世界から消えてしまう。つまり「プードル」なんかはこの世界から消えてしまうわけだ。文字通り「消えてしまう」ので、登場人物たちはプードルという存在そのものを失ってしまう事になる。ただそこに何かの小動物が居たらしいという気配が残されているだけで、そこには何も居ないのだ。
言葉が消えていく前代未聞の野心的小説。恐るべきメタフィクション。作家はこれで最後までストーリーを成立させる事が出来るのだろうか。
かくして作家と言語による壮絶な格闘が始まった。失ってはじめて気づく大切なもの。果たして「あ」が消えてしまえば「愛」も「あなた」も失われてしまうのか。言語が消滅する世界で何かを追い求めていく作家。終盤は異様なほどのテンションで虚構が暴走する。
SF研究家の日下三蔵は著書『日本SF全集・創解説』(早川書房)の中で、本書は筒井康隆による一連の実験的作品の中で<この方向の極北>と述べており、様々な手法で文学の可能性を探ってきた作者の作品の中でも極めつけとしている。
確かに、こんな無茶苦茶な条件を課しながら小説を書くなんて前代未聞だろう。しかもかなりの言語が失われてもそれなりにちゃんとした小説になっているのには驚かされる。まあこれも作者の技量なのだろうが、日本語の多種多様性というのはこれほどまでに豊かなんだなあと感心してしまう。
使える言葉をどんどん減らしながら書く、という超絶技巧もさることながら、過激にスラップスティックにエスカレートしていくストーリーも目が離せない。文体は徐々に変化しつつ、ギャグさえ交えながら読者には消えた言葉の残像に寂寞とした虚無感を感じさせていく。
この小説を書くにあたり筒井康隆は、1音消えるたびにワープロのその音のキーに画鋲を逆さに貼り付けて押せないようにし、指先を血だらけにしながら執筆したという逸話が残っているが、この人の事だからホラ吹いて笑っているのではないかという気もする。作家・評論家の森下一仁は著書『現代SF最前線』(双葉社)の中でこのエピソードに<本当だろうか>と冷静にツッコミを入れている。
ちなみに森下一仁は同書の中で<無理矢理SF内部のジャンルに位置づければ、「破滅もの」ということになるのだろうが、こんなやりかたで世界が破滅させられたことはなかった>と記している。個人的には言語SFに分類してもいいような気はする。
ところで1989年に中央公論社から単行本で刊行された際は、後半のページが袋とじになっていて、「ここまで読んで面白くなかったという方はこの本を送り返してください。代金を返します」と書かれていたそうだ。本当に返金したのだろうか。というかわざわざ袋とじを開けないで出版社に返送するような人いたのだろうか。これも遊び心だな。1995年に文庫化。
言語による虚構、つまり小説というものの根幹を揺るがす驚異の小説。こんな企みを思いついて、本当に実行して完成させてしまうだけでも筒井康隆の恐ろしさを感じる。