ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]いま集合的無意識を、

 

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

いま集合的無意識を、 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

「しかしフィクションなら、小説という<虚構>にすれば、それができる。意識的に嘘を語るというのではない。どのように読まれようがかまわないという覚悟で書かれるのがフィクションであり、小説というものだと、ぼくが言いたいのはそういうことだ」

 

 伊藤計劃という作家は34歳という短い生涯のうちわずか2-3年間を商業作家として過ごした。しかしその長くない活動期間の中で世界水準のSF作品を発表し、2000年代の日本SFを代表する作家となった。
 死後も作品が海外で刊行されたり、冒頭のみ遺された未完の遺作『屍者の帝国』を盟友である芥川賞作家・円城塔が完成させ更にアニメ映画化されるなど、未だに様々な分野で影響力を遺している。死してなお忙しいとは気の毒な気もするが、早すぎた死はそれだけ悔やまれるのだ。
 そして80年代から日本SFを一線で牽引してきたベテランSF作家・神林長平伊藤計劃から大きな影響を受けた1人らしい。

 

 インターネットのコミュニケーションサービス<さえずり>を利用するあるSF作家は、<さえずり>のタイムライン上に奇妙な書き込みを発見する。それは彼に直接語りかけてくるようだ。やがてSF作家はそれが伊藤計劃の書き込みである事に気づく。

 この本の表題作「いま集合的無意識を、」(2011)は、明らかに神林自身を主人公とし、フィクション上で神林と伊藤計劃が対話する実験的な私小説……いや私SF小説である。

 <さえずり>(言うだけ野暮だがもちろんTwitterのことだ)に出現した伊藤計劃は神林と対話をするが、もちろんそれは小説執筆当時の伊藤計劃ではない。よって神林は<さえずり>上の伊藤計劃と共に、小説執筆当時の伊藤計劃について語りあう事になる。奇怪な対談はSFの、小説の、フィクションというもののあり方について徐々に迫っていく。

 作中の言葉によれば神林自身は伊藤計劃の作品を刊行直後は読んでいなかったらしい。文庫版が刊行された後にようやく読んだそうだから、かなり後の話だ。だから死後ずいぶん経ってからこんな小説を発表したのか、とファンは苦笑いかも知れないが、神林がこのタイミングで伊藤計劃と対話し始めたのには理由があるようだ。

 

 2011年3月11日。この国を混乱に陥れた大災害が東日本を襲った。都市は壊滅し原発が世界に恐怖を与えた、あの未曾有の災害。想像を越えた現実についてSF作家は語るべきだと僕は思っているし、実際それに対する答えとも言うべき単行本『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)が2011年8月に刊行されていたりするが、神林はそれを真っ向から否定する。「SF作家はどのような社会自然現象についても応答する義務など負っていない。(中略)SF作家の責務は一つだけだ。新しいSFを創ること、新作を書くこと、ただそれだけだ」という。

 しかしその衝撃的な体験に折り合いをつけることとフィクションを語る作家であるという立場は苦悩を伴うことだったに違いない。だから伊藤計劃に救いを求めたのだ。

 

 それを都合がいいと嗤うこともできるだろう。何だかんだ言っても中年作家の独り言じゃねえかと斬って捨てることも可能だろう。この作家の言葉に意味を見つけ出すかはそれこそ読み手次第だろう。神林自身が作中でそう言っているのだから。
 あの『屍者の帝国』を完成させた円城塔は出版元のウェブサイト上でこの作品に対する反論ともとれる発言をしている。死んだ人間の事で言い争っても答えは出るはずもない。それぞれの言葉を読んで自分で判断してみるしかない。

 それにしてもなぜこの小説のタイトルは「、」で終わっているのだろう。まだ語っている途中だからだろうか。だとしたら、その続きは神林のその後の長編作品にあるのかも知れない。

 

 本書には「いま集合的無意識を、」以外に「ぼくの、マシン」「切り落とし」「ウィスカー」「自・我・像」「かくも無数の悲鳴」の5編の短編を収録。全作品を通すと、クラウド社会を予見したような「ぼくの、マシン」(2002年執筆!)をはじめとして、なんらかの共通テーマが浮かび上がってくるようでもある。これらは1996年から2011年にかけて書かれたものだが、その内容から作者の先見性と問題意識を再認識させられ驚いた。
 観念的で難解なものも多いので個人的にはなんかSFファン以外には薦めにくい神林作品だが、この本は全体的にかなり読みやすい方だと思う。

 フィクションの可能性とは何だろう。それは震災後の世界で改めて問い直されるべき問いであり、答えは読み手個人に委ねられている。