ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]火星ダーク・バラード

 

火星ダーク・バラード (ハルキ文庫)

火星ダーク・バラード (ハルキ文庫)

 

 

 2011年に第32回日本SF大賞を受賞するなど現在第一線で活躍中のSF作家・上田早夕里の商業デビュー作にして第4回小松左京賞受賞作。未来の火星を舞台に人間の愛憎を描く力作だ。

 

 未来。人類は火星に進出し「パラテラフォーミング」により都市を建設、多くの人間が移住していた。といっても気温も気圧も地球より低い火星では、都市は巨大な天蓋に覆われ環境がコントロールされている。つまり都市といってもそれは巨大な温室のようなものなのだ。

 火星の治安管理局に勤める刑事の水島は、壮絶な死闘の末に逮捕した殺人犯ジョエル・タニの護送中に謎の現象に遭遇。バディである神月璃奈を亡くした上ジョエルにも逃げられてしまう。

 当局に璃奈の殺人容疑をかけられた水島は、個人的に事件の捜査を始めるが、その過程でアデリーンという少女に出会う。やがてその少女が人類を揺るがすある重大な秘密を持っている事に水島は気付いていく……。

 天蓋に覆われた世界で、2人の孤独な逃亡者が未来を求めて疾走する。

 

 ハードボイルドの感触で描かれるSFサスペンスである。アデリーンはその出自に驚くべき陰謀が関わっており、水島は彼女をその重い運命から解放しようとたった1人で権力に立ち向かい追われる身となる。

 15歳のアデリーンは研究所で育ったため世間知らずで無鉄砲なところがあり、40前のオジサンである水島に男としての魅力を感じるが、ストイックな水島はそれを子供にありがちな一時の気の迷いとして相手にしない。

 冴えない中年男と若々しい少女という配置は実に鮮やかな対比を見せる。かたや残された未来の少ない男。かたや無限の未来が広がる少女。ここらへんはジャン・レノの出世作である映画『レオン』を思い出すね。

 そう、水島はアデリーンの未来のために自分を犠牲にする決意をするのだ。しかし水島に想いを寄せるアデリーンの心は大きく揺れ動く。

 不毛な火星の地と、冷たく暗い宇宙空間をバックに、美しく静かな「ダーク・バラード」が奏でられていく。

 それはどう転んでも暗い未来しか待っていない男と、そんな男を愛してしまった少女の運命を暗示するような「ダーク・ストーリー」でもある。 

 

 遥か科学技術が高度に発達した未来においても、人間の愛情や悲しみは変わる事はない。遠く宇宙に進出し地球の重力から逃れた人類。それは認識の大きな変容を人類にもたらしたはずだが、それでも人が人を想う心は変わらない。変わらないからこそ、そこにはドラマが生まれ、それは誰もが避けようと思っているのにも関わらず悲劇的な結末へ転がって行ってしまう事もある。

 

<私が欲しいのは、どんな未来が訪れても、誰もが自分の選びたい生き方を選ぶことのできる社会だ!>

 

 単純に一人の少女の未来を守ってやりたいという水島の想いの根底には、自らの過去や失ってしまった璃奈への動かしがたい感情があるのだろう。

 火星といえばSFの定番だが、本作ではこの舞台が効果的に使われている。地球から遠く離れ、それでも地球の束縛から逃れることを許されない星。もはや地球が故郷ではない人類も多く、そこには地球への郷愁などなく、なんとなく上から目線でうざったい星だな、くらいの捉えられ方である。

 パラテラフォーミングをはじめとして、軌道エレベータリニアモーターカーなど、魅力的なガジェットが多数登場し、しかもそれらが物語に密接に関わっている。

 科学技術が発達するのに伴って多くのものが闇へと葬られてきた。それらの犠牲の上に築きあげられた巨大な科学の楼閣こそが火星それ自体なのかも知れない。

 

 人が生きるから人と関わらなくてはいけない。だから苦悩や苦痛が生まれる。だから人間というのは愛しい。

 主人公の周囲には様々な人物が関わってくるが、みんな敵とか味方とかに簡単に区別できない人物ばかりである。そしてそれらの登場人物たちが皆自分の大切なものを守るために闘っているのだ。作中で「悪役」を割り当てられているある狂信的な人物についても、ある明確な目標のために目的を達しようとしており、それが人類にとって善であるのか悪であるのかなど誰にも判断できない。

 

 作者は女性であるが、非常に骨太で読後感の重いSF小説だ。ラスト、水島は勝利したのか、それとも……。

 実にハリウッド的なアクション満載の物語であるが、そんじょそこらの監督が映画化しようとしても恐らく、主人公らの繊細な心の動きを映像で描くのは至難の技だろう。

 それだけ重厚な中にもナイーヴさを秘めたハードボイルドなのである。最近は様々なジャンルで活躍しているが、上田早夕里はそんなカッコいいSFが描ける貴重な書き手なのだ。

 

 2003年に角川春樹事務所から単行本刊行。2008年にハルキ文庫で文庫版刊行。文庫化に際し大幅な改稿が施されている。