[読書]永劫回帰
宇宙を旅する男キャプテン=ヨアヒム・ボアズは、不具だった身体を哲学者コロネーダーらによって改造されていた。それは珪素の骨をとりつけられた一種の超人である。しかし不慮の事故のため珪素骨と感覚器官の痛みを感じる機能が結合、地獄の苦痛を延々と味わうことになってしまう。宇宙が定められた円環構造を幾度も繰り返すために同じ地獄の苦しみを何度も経験する羽目になった彼は、ある決断をする。
宇宙の円環をぶち壊し、苦痛から解放されるのだ。
バリントン・J・ベイリーのワイドスクリーン・バロック“The Pillars of Eternity”の邦訳だ。巻末の解説で述べられているとおり、1人の男が宇宙を相手に闘いを挑むというびっくりするようなスケールのでかい宇宙SFである。並の作家なら思いついても手に負えなくて書かないような途方もないスケールのSFをマジで書いてしまうのが奇想の作家ベイリーなのである。
しかも、とんでもない冒険物語を描きながらも哲学の領域にまで足を踏み込んで、運命論のようなものまで論じてみせる。そもそも「永劫回帰」という言葉自体ニーチェの思想である。科学理論も含めどことなくハッタリで煙に巻かれている気もするのだが、ベイリーは力技で宇宙をねじ伏せる。
かくして主人公ボアズは宇宙の時を操る力をもつという宝石「時間石(タイム・ジェル)」を求めて壮大な冒険を繰り広げることになるのである。
<わからんのか? 宇宙はくりかえすんだぞ。過ぎさったものはすべて、くりかえしくりかえし、永遠に再現されなければならんのだ。過去はおれたちのまえにあるのだぞ>(p152)
<おれは未来を変えなけりゃならん――宿命を破壊し、時間を新しいレールのうえに置いてやるんだ>(p153)
主人公が超人になったのはいいが、そのおかげで延々と激しい苦痛に苛まれるというのが皮肉である。超人であるがゆえに経験しなくてはならない恐ろしいほどの苦痛。常人である我々には想像もつかないような苦しみだろう。
その上ボアズは自らの宇宙船と機能的にリンクしており、文字通り宇宙船と運命共同体であるという設定もナイス。だからこそ彼は自らを「シップキーパー(宇宙船管理者)」ではなく「キャプテン(船長)」と呼ぶのだ。
自らと宇宙の運命に立ち向かうボアズのもとには様々な仲間が集い、個性的な敵が立ちはだかる。ボアズは果たして目的を達成できるのか。
経済帝国、光輝星団、放浪惑星(ワンダラー)メアジェイン、鳥頭人(アイビス)……。ベイリーらしい様々なネタ(アイデア)が惜しげもなく投入され、読者を幻惑の世界へ引きずり込んでいく。これだけ濃密にネタを詰め込んでおきながら、300ページ以内というスリムさで大風呂敷を畳んでいる手際の良さは、何かと長大になりがちな最近のSF作家には見習ってほしい。
ベイリーは何事も出し惜しみしないし、どんな無謀な事にも本気だ。そう、そしてベイリーは反抗的だ。それは権力者に対する怒りとか、恋敵に対するライバル心とか、そんなスケールの話ではなく、自然界の法則とか、科学の限界とか、そういう人間の力ではどうしようもないような事に腹を立ててみせるのである。
解説で中井紀夫が記している通り、自分が我慢ならない事には本気で挑む。宇宙が同じ歴史を何度も何度も繰り返しているなんて我慢できん!となれば相手が宇宙だろうが容赦しない。そんな反抗心がベイリーの書くSFの魅力の1つでもある。
作中、ある登場人物の手のひらに<勝利などだれが望むか>という言葉が烙印がされているのだが、これなんか実に反抗的だ。
<よいか、宇宙の進路を変えられるのは神のみであるからして、結果的にそなたは神になる方法をたずねておるのだぞ>(p195)
<わたしたちは無鉄砲な人種です。だれかが、どこかで、直視できないほどの問題に敢然と立ち向かわなければならないのですよ>(p251)
最後の最後、ボアズがたどり着いた真理とは……それはなかなか意外なものである。これを読んで大笑いしてしまうか、納得してしまうかは読者次第。でもまあ、こういうのもアリかなあという気はする。
読み終えたあと、人生の見方がちょっと変わってしまうかも知れない。宇宙さえも変えてしまおうというボアズ視点の物語を読み終えてから自分を振り返ってみると、なんだか俺って小さなことで悩んでいたなあと思う。
大げさに言えばスケール感という認識の変容。そんな感覚を感じることができるのがこのSF小説の最大の面白さだろう。