ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]BH85 青い惑星、緑の生命

 

 

 まあ僕も三十路を過ぎてから抜け毛はさらに気になっている訳で。お風呂で髪を洗っている時や朝起きて枕を見た時は悲しい気分になるものだ。波平さんでなくても男にとって髪の悩みは永遠のもの。陰で涙ぐましい努力をしている人は多い。

 

 森青花の『BH85 青い惑星、緑の生命』は、ある育毛剤が物語の発端となる。製薬会社毛精本舗ではある出来事が会議の場で話題となっていた。会社の問い合わせ窓口に「育毛剤がよく効いた」という電話がかかってきたのだ。 

 実はこの育毛剤には毛利という社員が開発した成分が混入していた。彼が開発したのはBH85という育毛成分……というより毛髪そっくりな生物のキメラ細胞。これが皮膚に付着すると、少し緑がかった毛が生えてきて、しかも抜け落ちるという事がないのだ。文字通り「みどりの黒髪」か。しかし事は「髪が伸び過ぎる」という珍事態。異物混入をやらかしたのは問題だが、育毛剤としては最高な商品なのではないか……なんて本人の甘い考えが通る訳もなく、しかもこの症状はやがて世界を巻き込んだ騒動へと発展していく。

 

 毛利が開発した育毛剤は人をまるで緑色のチューバッカのように変化させていく。それは動物や植物をも取り込んでいき、地球上を覆い尽くしていく。とんでもない事が進行しているのに、登場するキャラたちはなんだかそんなに深刻じゃない。作者の世界観は独特で何故かほのぼのしている。大きなパニックも起こらず、でもどこかで何かが起きて破滅は阻止されるのではないかという読者の予想をあっさり裏切り人類は滅亡へまっしぐらだ。

 

 吾妻ひでおの表紙イラストからも何となく伝わってくるが、この小説が描くのは前代未聞の「牧歌的な終末」。人呼んで「なごみ系バイオハザード」だ。
 あ、でも別に設定が適当とかストーリーがいい加減てことはなくて、生物学的理屈付けもそれなりにちゃんとされているし、単なるお気楽バカSFってだけの小説ではない。

 ゾンビ映画など「襲われたら怪物の仲間に取り込まれちゃう」系の映画なんか観ていると、「そんな無理して逃げ回らないでもういっそ観念して仲間になっちゃた方が楽なんじゃね?」という気分になることがある。
 実際、世の中の大多数が何かに変化してしまえば、変化していない方が異端になってしまう訳だ。リチャード・マシスンの小説『アイ・アム・レジェンド(地球最後の男)』はそれをテーマに人間の本質を鋭く抉ったSF史に残る名作だし(映画版は微妙だったけど……)、藤子・F・不二雄がそれを少年マンガに翻案した『流血鬼』も本歌取りの傑作だった。そういえば塚本晋也監督の初期の代表作『鉄男 TETSUO』では謎の敵に取り込まれてしまった主人公が「気持ちいいなあ」とつぶやいていた。
 人間には「圧倒的なパワーを持つ異形と同化したい」とうアブノーマルな欲求があるのかも知れない。それって種の存続さえ脅かす危ない欲求なんだけど。

 

 だから本書は奇妙な幸福感にさえ包まれている。ものすごく気色悪い事が起きているのに、「もうこのままでいいや」と流れに身を任せたくなる感じがする。一応真剣に奔走するキャラもいるんだけど、それもやがてどうでも良くなってしまう。
 人間以外の生物の侵略による世界の破滅と変容を描いたSF小説といえばグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』がある。『ブラッド~』と『BH85』を比較した書評もあちこちで見かけるんだけど、あちらのシリアスな展開と比べて本書の脳天気さよ。こういうユルい展開を受け入れられるかは読み手によるだろうが、こういう小説を楽しめると読書の幅も広がるような気がします。

 後半、緑色に覆い尽くされた地球で、取り込まれた人たちとそうでない人たちとのコミュニケーションが成立してしまう。これも凄いことなんだけど、極めてサラッと描写されている。個が全体であり全体が個である意思とのコミュニケーションとはまったく未知の世界なのだが、この場面もなんだかほのぼの。
 だからユートピア小説なのかディストピア小説なのかもよくわからない。そういう意味では何気になかなかいろんな事を考えさせられる小説ではある。

 

 吾妻ひでおのイラストはピッタリだと思うんだけど、ただちょっとライトノベルっぽ過ぎるが故に誤解されている部分もあるような気がしてこれで良かったのかどうかよくわからない。まあ物好きのアンテナには確実に引っかかるか。
 BH85ってネーミング、バイオヘアーとかそういう単語の略称だと思うでしょ。最後にこの名前の由来が明かされるんだけど、ここまでやっといて語源はそれかよ…と脱力する事必至。最後までテイストが一貫しているのは感心しました。まあこれくらいのオチがなくちゃ終われないよね。

 

 1999年第11回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。新潮社から単行本刊行、作者のデビュー作。2008年徳間デュアル文庫から文庫化。