ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]高い城の男

 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

 僕が住んでいる沖縄は今でも基地問題で日々揺れ続けていて、いろんな立場の人がいろんな発言をしているのだけど、この問題の根幹には「占領する側とされる側」という立場の違いがある。

 第2次世界大戦で日本は負けた。それは事実であって、その後の東京裁判がどうとか言ってみても結局負けた方が何と言おうとどうしようも無いのだろう。とにかく日本は戦争に負けたのだから。 

 ……では、もし日本が戦争に負けなかったら。その「もしも」を描いたのがこの小説である。

 

 第2次世界大戦枢軸国側の勝利に終わり、アメリカは西側を日本が、東側をドイツが統治している。サンフランシスコでアメリカ大衆文化の骨董品を扱っているチルダンは日本の通商代表団の田上に依頼された品物の入荷を待ちわびていた。

 生前不遇の作家生活を送ったSF作家フィリップ・K・ディックが、「もし戦争の結果が現実とは逆だったら?」というアイデアで1963年度のヒューゴー賞を受賞した出世作。設定上、日本や日本人も重要な役割で登場するので、内容の賛否は別として日本の読者にとっては必読の作品だろう。

 第2次世界大戦を扱った「歴史改変もの」は一時期日本でも流行ったが、果たしてディックはどのように描いたか。

 

 戦争に勝利しても日本やドイツの国民性はあまり変わらないようで、ドイツが派手に宇宙開発に乗り出す一方、日本は遅々として進まない南米開発に勤しんでいる。日本人はドイツ人よりは紳士的な統治をしているようだが、何を考えているのかよくわからん、と多少気味悪がられているらしい。

 

<こともあろうに、おれたちはこの連中をモンキーと呼んでいたんだ。このチビでが

にまたの文明人たち、ガス処刑室も作らなければ、自分の妻を融かして封蠟に変えた

りすることもない連中を>(p22)

 

 ディックの日本人観はステレオタイプだし、固有名詞にもおかしな部分が少なから

ずあったようだ。だがアメリカ人が日本人にへいこらして機嫌を取っている世界はや

はり読んでて妙に落ち着かない。ここらへんをどう受け止めればいいのか日本人にと

っては悩ましいが、まあ僕らが読んでて一番面白い部分でもある。

 

 ディックが目を向けるのは国家の在り方などではなく、あくまで日常を生きる人々の日々の暮らしである。日本やドイツの上層部は直接的には描写されないし(天皇ヒトラーも登場しない)、国の意思に右往左往させられる人々を中心に描いている。主人公格の人物は複数登場するが、みんな運命に振り回されている。

 そう、もしかしたら運命というもの自体がこの物語の主役なのかも知れない。この世界の人々は物事を決める時に中国の「易経」を当てにしている(テレビとかで良く出てくる道端の占い師が筮竹をジャラジャラして占うアレですね)。最後の方では登場人物が易経で卦を立てるたびにディック自身が本当にやっていたらしい。それで小説の方向性を決めていたというから後年神秘主義に染まるディックらしい。易経が導く人々の運命。この運命のうねりこそがディックの描きたかったものなのだろう。

 

 さて、ここからがディックらしい所なのだが、やがて作中のアメリカでは『イナゴ身重く横たわる』というタイトルの小説が出回り始める。この小説は(作中の)現実とは逆で連合国側が勝利した世界を描いた歴史改変小説である。人々はこの小説を手にとり、回し読みしながら現実とは何なのかに向き合っていく。

 興味深い事に『イナゴ~』で描かれる世界は我々が知っている現実世界とは微妙に違う歴史を歩んでいる。そしてこの小説の作者が暮らしているのが「高い城」と呼ばれる邸宅なのである。

 

<そんなものはどこにもないユートピアだよ。もし連合国側が勝っていたら、やつのいうように、ニュー・ディールで経済が復興し、社会主義的な福祉の改善ができたと思うか?>(p237)

 

 ちなみに関係ない話だが、ここ数年伊藤計劃乙一など日本のエンターテイメント小説を精力的に英訳しているアメリカのレーベル「ハイカソル(Haikasoru)」は、「High Castle」を日本語風に発音したネーミングなのだそうだ。

 

 戦争の勝ち負けというのは本当に大きな事なのだ。改変された歴史にさらに放り込まれた改変。「現実と虚構は何が違うのか?」を一貫して追求してきたディックはどこへ向かうのか。終盤、ドイツの首脳部が権力闘争でゴタゴタしている間に物語が大きく動き、田上は交渉相手との会見を通じて国家の恐るべき企てを知る。

 

 SF要素は少な目で、ディック作品の中では普通小説に近い味わい。海外SF評論家の渡辺英樹は<本物と偽物に対する洞察の深さ、人物造形の巧みさにより、本書はディックの諸作の中でも特に完成度の高い作品となっている。複雑な構成は上手くコントロールされ、抑制の効いた筆致は迫真的だ>と評している(『フィリップ・K・ディック・リポート』所収/早川書房編集部編/ハヤカワ文庫SF)。

 

<なにが起こるにしても、それは比類のない悪に違いない。では、なぜじたばたあがく?なぜ選択する?もし、どの道を選んでも、結果はおなじだとすれば……>(p369)

 

 現実と虚構の違い。骨董品の真贋など隠喩に込められたディックの意図はどこまでも読者を惑わせる。

 ところでこの小説、以前から映像化の話があり、最近ではリドリー・スコットがテレビドラマ化するという噂が出ていた。どうせ実現しないだろうと思っていたのだが、今年本当にパイロット版が製作され、その好評を受けて正式にシリーズ化が決定したという(リドリー・スコットは製作総指揮として参加)。これを観て今の時代に日米関係を改めて観なおしてみるのもいいかも知れない。


 ところでいまだに良くわからないんだけど、小説中に時々出てくる「サイキ」って何?何かの日本語?