[読書]know
僕は記憶力に自信が無いので、調べればわかる事はあまり憶えないようにしている。脳味噌に記憶できる容量に限りがあることが分かっているからだ。必要な時に調べればいい。
でもそれでは物事を「知っている」という事にはならない。物事を知識として知る事は、人の視界を少しだけ広げる事だと思う。では、全てを「知っている」人間にはどんな世界が見えるのだろう?
2081年、京都。人々は増大し続ける情報量を処理するため、脳に「電子葉」と呼ばれる人工の脳葉を植え付けている。また同時に街中の建築物等人間を取り囲む物体にはほぼ全て「情報材」とよばれる物質が含まれており、これらは日々膨大な情報を発信している。
そんな超情報社会。情報庁の官僚である青年、御野・連レル(「おの・ツレル」と読む)は情報素子のソースコードに少年時代の恩師が暗号を残していた事を発見する。その不可解な暗号を解読しメッセージに従ってある場所に赴いた彼は、道終・知ル(みちお・シル)という14歳の少女と出会う。
彼女はすべてを「知っていた」。そして彼女は世界を変える存在だった。
これは「知ること」が人間の認識を変容させる物語。
まず舞台設定が魅力的だ。未来の日本では京都が情報最先端都市になっていて、でもそこには歴史的建造物も同居している。修学旅行生は三十三間堂を見学している。男は仕事帰りに晩酌用のつまみを買って帰っている。未来だが今とあまり違わない社会が描かれるので、読んでいても入りやすい。実際、何十年たっても日本の光景なんてそう変わらないんだろうな、と思わせる。
しかしそこで展開される人々の暮らしには大きな変化が起きている。電子葉を脳に植え付けるという事は、もの凄く単純に言えばパソコンやスマートフォンを脳の中に入れているようなものだ。
人々は脳内で大量の情報を処理し、自身の個人情報を段階に応じて発信している。だからこの時代の人々は多くの事が判る。しかしそれでも全てを知っている訳ではない。
そういえば19世紀の生理学者エミール・デュ・ボア=レーモンは「我々は知らない、知ることはないだろう」と語っていた。
本書には登場しないが、物理学には「ラプラスの悪魔」という概念がある。ある時点での全ての原子の運動量と位置を物理的に観測できれば、未来を完全に予測することができる、という概念である。量子力学の隆盛により現在は否定的に語られるようになったが、なるほど、現時点で全てを知っている者は未来も知る事が出来るというのは何となく腑に落ちる気はする。
<悟るためにはの、“自分が何を知らないのか”を知らなければならない>(p178)
オカルト研究家の佐藤健寿は世界中の変なモノを取材した著作『奇界遺産』の中で、イースター島のモアイを造り上げた人々が外洋に乗り出していった動機について、「ただただ好奇心」という説を取り上げている。信憑性は別として、僕はこの説にちょっと感動してしまった。
「知らないことを知りたい」という欲求は人間の根源的な渇望なのだろう。未知への好奇心が人類を進化させてきたと言っても良い。でも人間の脳の容量には限界があるから、今のところ個人が世界の全てを知る事など物理的に不可能である。しかしそれが可能になったら……?
驚くべき発想で作者はその先を描いていく。
本の雑誌増刊『おすすめ文庫王国2014』の企画「2012-2013オリジナル文庫大賞」では、匿名の文芸編集者7名と書評家3名、そして北上次郎氏らによる話合いの中、候補6作中ほぼ満場一致で本作が大賞に輝いている。実力は伊達ではないのだ。
参考までに同企画内で本書は「物語に既視感がないし、とても新鮮」「SF読者でなくてもわかるように書いてる」「SFの要素を最小限にして、きっちりエンタメにしている」等と評されている。SF的驚きを堪能できる小説なのだが、SFに詳しくなくても面白く読めると評価されているのが凄い。
ライトノベルっぽい表紙に油断していたら置き去りにされてしまうから要注意だ。
ともあれ、物語は非常に映像的に描かれており、中盤にはとてもアニメチックな敵キャラも登場するので、アニメ化には向いてるかも。
クライマックス。ある人物同士の対話の場面は圧巻、ではあるのだが、なんかもっと振り切って欲しかったぞ!という贅沢な不満も残る。
<未来の見えない暗闇の中で、想像の及ばない先に僅かでも手をかけるために、人は生きている>(p314)
僕はもう10年も今の会社に勤めているが、自分が経験した部署以外がリアルにどんな業務をしているのか、実際的には知らなかったりする。人の思考の許容量なんてそんなものだろう。
でも僕らは知るために生きている。生きる事は知る事だ。全てを知った時、人類はどんな進化を遂げるんだろう。誰も知らない。だから僕は知りたい。