ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]想像ラジオ

 

想像ラジオ (河出文庫)

想像ラジオ (河出文庫)

 

 

 僕の仕事は外回りが多い。だから車を運転している時間が長い。車での移動中は一人きりで孤独な時間だ。そんな時の車中での友達はやっぱりラジオである。

 僕も例にもれずよく聴くお気に入りのラジオ番組がある。そのラジオのパーソナリティの決め台詞は「ラジオはソーゾーです」。ソーゾーとは想像であり創造である。ラジオファンならきっと腑に落ちるキャッチフレーズだと思う。

 ラジオは映像が見えないからこそ想像力が働く。僕たちはパーソナリティのおしゃべりや音楽を聴きながらそこに様々な想いを巡らせている。顔も知らない人の喜びや悲しみをまるで隣で聴いているかのように身近に感じる。情報が溢れる現代社会で、これほどまでに想像力を刺激されるメディアは他にない。

 

 2011年3月11日、この国を襲ったあの災害は、我々の認識と価値観を大きく変えた。一度に万単位の人が死ぬなんてそれこそ原爆投下以来の出来事ではないか。その日僕は自分の想像力というものがいかに貧弱なのかを思い知らされた。
 同月末、バンド「スピッツ」のボーカル・草野マサムネが震災報道などを目の当たりにした事による急性ストレス障害となり数週間の療養が必要になったと伝えられた。僕はこのニュースを耳にした時、さすがアーティストってのは感受性強いもんなんだなあと思ったものの、確かに震災後のあの報道状況と社会の気が滅入る空気を考えるとわからんでもないなとも思った。
 そういえばアメリカの作家カート・ヴォネガットは「芸術家はカナリアである」というような意味の事を言っている。社会に変化が起きた時に「炭坑のカナリア」よろしく真っ先に影響を受け、それを身をもってみんなに知らせることが芸術家の役割だという。なるほど、そう考えれば草野マサムネの身に起きた異変も理解できる。

 

 乱暴に結論づけてしまえば、全てにおいて想像力が大切なのだ。相手の気持になって考えろ。簡単に大人は子供たちにそう言うけど、本当に想像力を働かせて相手の気持に寄り添える大人なんて地球上にどのくらいいるだろうか。やった方がやられた方の気持を想像することは難しいし、やられた方もやった方の気持になる事なんてできないだろう。人類の歴史上、この無理解からどれだけの悲劇が繰り返されてきたか。

 

 『想像ラジオ』。この小説は、木の上から想像のラジオ放送を続ける男と、作家の「Sさん」の物語が交互に語られていく。いとうせいこうの久々の長編小説は、あの震災が人々の心に残した傷跡がテーマだ。
 さっきも書いたけどあの日、僕達は想像もしなかったような災害を目の当たりにし、想像を超える現実に脳は大きな負荷をかけられた。やがてその後被害の状況が明らかになるにつれ、我々は被災者の気持を想像し犠牲になった人たちに冥福の言葉を口にした。震災とまったく関係なかった人でさえ、震災後はちょっとブルーな気持になる人が多かったし、基本的にそういう気持は美徳であるとされていたように思う。あの「自粛ムード」もそんな風潮からきたものだろう。
 だけど、いとうせいこうは問いかける。そんな気持に意味はあるのだろうか、と。これはとても重い問いで、確かに、死んだ人を悼む気持は家族や地域の人たちが十分にもっているはずで、関係のない僕らが死者の声を想像することに意味はあるのだろうか。
 作者は重い問題に愚直に向き合い続ける。つまり、死者が放送する想像のラジオに耳を傾けるのだ。そこに語られるのは劇的でもなんでもない何気ないおしゃべり。そこで繰り広げられるのは死者が死を想う言葉。

 

 死んだ人の声に耳を傾けるなどというのは生きている者の身勝手である。下手をすれば死者への侮辱だ。大がかりな追悼式典や慰霊祭なんてのも同じく身勝手である。生きている者は生きている者がすべきことをすべきである。

 しかし作者はそれでも死者の声を想像し続ける。いつの間にかこの国では死が身近では無くなってしまった。アメリカであのテロがあった時も、崩れゆくビルの中に死にゆく大勢の人がいたという事がテレビの画面からは実感できなかった。死は隔離された場所にあり、そこに想像は及ばなかった。

 そんな世界であの震災は起きた。比較的身近な場所で起きた大規模な死は外側から人々の想像力の膜を無理矢理破って極めて個人的な領域に侵入してきた。だからこの国の人々は大いに動揺し打ち震えた。慌てて死者の声を想像してみても、そこに聴こえるのが何なのか理解できるだろうか。果たして自分のエゴの声ではないだろうか。

 

 しかし死者は何かを発しているはずだ。いとうせいこうは真摯に耳を傾けている。その行為は恐怖を伴うものだが、それを甘受して想像し続けている。

 SF作家の山田正紀は「想像できない事を想像する」事を創作の原点としているそうだ。僕達は何を想像できているだろう。

 

 2013年河出書房新社から単行本刊行、2015年河出文庫にて文庫化。第26回三島由紀夫賞および第149回芥川賞候補作。第35回野間文芸新人賞受賞。