ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]インシテミル

 

インシテミル (文春文庫)

インシテミル (文春文庫)

 

 

 時給11万2000円。もうこれだけで人生投げ出してもいいくらいの魅力を感じてしまう人もいるのだ。まことお金の魔力は恐ろしい。
 だがもちろん本当に恐ろしいのは人間の心。得体の知れない悪意に直面した時、理解を超えた現実を目の当たりにした時、人はただ途方にくれるしかない。その状況を打破するのは経験と知識だけ。

 

 夏休み中の学生である結城理久彦は、ある日コンビニで目にしたアルバイト雑誌で奇妙な募集を見つける。ある実験のモニターになるだけで「時給1120百円」が手に入るという。つまり11万2000円。どうせ「百円」の部分は誤植だろう、でも時給1120円でもいいバイトじゃないか。そうして結城はこのバイトに応募することにした。異常な世界がそこに待ち受けているとも知らずに。

 

「この先では、不穏当かつ非倫理的な出来事が発生し得ます。それでも良いという方のみ、この先にお進み下さい。そうでない場合は、立ち去ることをおすすめします」

 

 隔絶された建物「暗鬼館」に集められた年齢も境遇も様々な12人の男女。7日間、常に監視されている中で殺し合いが始まる。各々に別の凶器が与えられ、殺した人数が多いほど報酬は増えていくが、犯人である事がばれてしまえば報酬は減額されてしまう。疑心暗鬼の中、実験が開始された。果たして7日後に無事生還するのは誰か。

 

 2007年に刊行されベストセラーとなったミステリー小説。それまで「古典部シリーズ」など青春ミステリーのイメージが強かった米澤穂信が新たな一面を見せつけた作品だ。現実感のない世界の中で右往左往する登場人物たちの姿には、作者のダークな部分を感じる。
 暗鬼館には非常に細かいルールがたくさんあり、主人公らはそれに翻弄されることになる。ルールブックさえ用意されている。物語の進行上で探偵役が決まるという小説の前提さえ捻じ曲げ、暗鬼館のルールにのっとって探偵役が決まる、人工的なミステリーが展開される。

 

 この小説のキモは、上記のように「強制的に設定された物語世界」だ。閉ざされた館で起こる殺人という「クローズド・サークル」系の世界を作り出すために、作者はいちいち細かいストーリーを書きこむ訳ではなく、こういう場所なのだ!と強引に主人公らを放り込む。
 そう、ミステリー好きなら序盤で気づくと思うし、そうでなくても途中まで読めばわかるのだが、この小説はミステリー好きの作者がミステリーというもの自体を描き出そうとした「メタミステリー」なのだ。

 

 作中ではタイトルの意味について言及はされないが、単行本版の表紙には「THE INCITE MILL」の表記がある。調べてみると「扇動する施設」というような意味だが(=殺し合いを煽る場所?)、文庫巻末の香山二三郎の解説によると「(ミステリーに)淫してみる」の意味も含まれているらしい。まさにミステリー読みによるミステリーに淫する時間。ミステリーのお約束を逆にルールとして強制させたミステリーだ。
※ちなみにクローズド・サークルものという事で「(館に)INしてみる」という語呂合わせもあるようだ。

 登場人物のそれぞれが与えられた凶器についてもいちいち細かいウンチクが披露される。ゴタゴタがあった部屋の掃除をしたりルール違反者を排除するロボットがいたりして、実験の参加者は細かいことを気にしなくても物語が進むように誂えられている。ある人物同士が交わすミステリーに関する談義は、普通の読者にはついていけないマニアックなもの。やっぱり普通ちょっと変わっている。
 一般的なミステリー小説のように装いながらも、マニアによるマニア向けのミステリー小説。まあそれでも内輪ウケにならず、多くの読者を巻き込んで売れたのだからやはり作者の力はただ事ではない。ちゃんとミステリーについてまったく無知な登場人物なども配置しているので初心者にも一応配慮はされている。

 

 この小説、2010年には中田秀夫監督、藤原竜也綾瀬はるか主演で映画化されている。「7日間のデス・ゲーム」のサブタイトルが冠され、登場人物を数人削るなどかなり端折ってはいるが基本的に原作の流れに沿って映画化されている。まあこういうのはどうやったって原作ファンは納得しないと思うが、原作とはまた違ったものだと思ってみればそれなりに魅力のある映画になっていた。

 作者(=神)が用意したクローズド・サークル。もちろん誰だって人殺しなどしたくはない。結城たちはこの世界に一体どう立ち向かうのか。メタミステリーでありながら、もちろん小説内で物語はキチンと収束する。
 さて、ラストは思わせぶりな場面で終わる。無論ネタバレだから詳しくは書かないが、これは良い終わり方だったのか否か。どう感じるかは読者の経験値によると思う。

 

 2007年文藝春秋より単行本刊行。同年、第8回本格ミステリ大賞最終候補、本格ミステリベスト10で4位、週刊文春ミステリーベスト10で7位、このミステリーがすごい! で10位。2010年文春文庫で文庫化。