ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年

 

ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年 (文春文庫)

ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年 (文春文庫)

 

 

 2013年に制作された是枝裕和監督の映画『そして父になる』。福山雅治が主演し、第66回カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞、アメリカの映画会社ドリームワークスによるリメイクの報道等で大きな話題となったが、この映画のエンドロールで「参考文献」としてクレジットされているのが本書、沖縄で起きた赤ちゃん取り違え事件のルポ『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』である。

 

 冒頭は沖縄の地元新聞に関する話題から始まる。1977(昭和52)年7月、ロッキード事件の話題で大手マスコミが持ちきりな中、沖縄の地元新聞にはある「スクープ」が形さされた。それは当時全国で頻発していた赤ちゃん取り違え事件が沖縄県中部の沖縄市でも起きていた事が判明したのだ。取り違えられたのは城間家の四女と伊佐家の長女(両家とも仮名)、子供たちは6歳。もうすっかりそれぞれの家族の一員として生活している年齢だ。

 小学校に上がる前の血液検査といういたって単純なきっかけから判明した取り違えは、やがてこの種の事件としては異例の本格的な裁判へと発展する。沖縄という地縁血縁の結びつきが強い地域で、事件は2つの家族に過酷な試練をもたらしたのだった。

 著者は『ナツコ 沖縄密貿易の女王』で講談社ノンフィクション賞大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど沖縄と縁の深いノンフィクション作家・奥野修司だが、その縁の原点はまさにこの事件の取材に始まる。

 サブタイトルは「赤ちゃん取り違え事件の十七年」だが、単行本刊行の約7年半後に文庫化されるまでの間に著者は追加取材を行っており、合計約25年に渡る長期取材を行っている。

 

 ここでこの本の成り立ちについて簡単に説明するが、新聞報道がなされた直後から奥野氏はこの事件に関わっている。当時女性週刊誌の記者をしていた彼はこの事件に関する仕事のため沖縄へ派遣されおり、その仕事が終わった後も両家族と個人的な交流を続け、取材し、それをこうして一冊の本にまとめているのだ。

 その週刊誌の仕事というのは、かつて長崎で別の取り違え事件の当事者になった別の夫婦と、沖縄の城間・伊佐両夫婦を引き合わせ雑誌の誌面上で対談させるという企画だった。

 もちろんその時の様子も本書では描写されており(第3章冒頭)、それまで傍観者的立場で記述していた著者がこの時突然登場人物となってルポの内容に登場するから読んでてちょっと変な感じではある。

 だが奥野氏はこの対談の場面は別として、それ以外はなるべく取材対象に感情移入しないように接しているようである。あとがきにも<だが、私はあくまで第三者である。家族といっしょになって問題の解決を手助けするなどということはできない。できるかぎり彼らの話を聞くことに徹した>(p398)と記している。

 

 でもよくよく読んでいくと、実際、著者は自制しながらもどうしても手助けをしてしまう場面があったようで、両家族につてをたどって弁護士を紹介したりしている。

 逆に言えばそれくらい著者はこの事件に思い入れを持っていたのだろう。かなり突っ込んだ取材をしている。城間/伊佐両夫婦の出自までさかのぼり、それは沖縄の現代史を掘り返す事でもある。離島での開拓時代、B円からドルへの切り替えなど沖縄戦後史をなぞりつつ、2つの家族の歴史を書き綴っていく。この部分は本土とはまったく違う戦後を歩んだ沖縄の社会状況がよく纏められている。

 これだけ関心を持って取材しているのだから、その後著者が沖縄と深く関わるようになるのも納得である。

 

 という訳でかなり著者の想いが込められていると思われるこの本だが、映画『そして父になる』は、赤ちゃん取り違え事件によって絆が壊された家族を描いている点以外は舞台も時代背景も大きく変更されている。映画の中でちらっと「沖縄の夏」のエピソードが語られるが、もしかしたら本書への多少のリスペクトなのかも知れない。

 前述の通り本書はエンドロールに「参考文献」とクレジットされている。この表記は非常に珍しいが、実は映画公開後にこれに関して著者・出版社と映画製作会社の間でひと悶着があったらしい。詳しくは長くなるのでここには書かないが、世知辛いなあ……と思わせる騒動ではある。

 ただ映画自体は良く出来ていて、是枝監督らしい静かな空気感の中、引き裂かれていく家族の物語が淡々と描かれていて胸を打った。 

 ちなみに映画では随所に「螺旋」が重要なモチーフとして登場する。これは間違いなくDNAの二重らせん表現しているのだろう。

 

 本書でも父親たちと母親たちは苦悩する。産みの親か育ての親か。やがて育った子供たちはどんな決断をするのか。それぞれの道は意外な形で交わっていく。まさに事実は小説より奇なり、である。

 

<犬や猫じゃあるまいし、人間の子供はそんな簡単に交換などできるものか>(p62)

[読書]削除ボーイズ0326

 

削除ボーイズ0326 (ポプラ文庫)

削除ボーイズ0326 (ポプラ文庫)

 

 

 みんな覚えてるかな。2010年、水嶋ヒロこと齋藤智裕が受賞して一躍有名になった「ポプラ社小説大賞」。

 その第1回大賞受賞作が本書である。刊行は2006年。

 

 「ポプラ社小説大賞」は、それまで児童書中心のラインナップだったポプラ社が文芸部門にも本格的に注力するために創設した賞だ。端から見てても結構力を入れているなーという感じが伝わってきたものだ。
 というのもやはり2000万円という破格の賞金のインパクトがでかかった。それまでの文学賞の中ではちょっと想像もつかない額に、版元の本気度がうかがえた。
 2000万円という賞金は、作家を育成するという意味だけでなく、宣伝効果も大きかった。その賞金の事だけであちこちで話題になっていた。これも戦略勝ちだと思う。

 そして第1回の受賞者が発表された時、僕は驚いた。応募作2746作品の中から大賞を受章した方波見大志氏は僕と同い年だったのだ。当時26歳くらいか。同じ26歳でも人生こんなにも違うもんか……ととても感心したのを覚えている。

 

 小学6年生のグッチこと川口直都がフリーマーケットで手に入れたのは、デジカメのような怪しげな機械。どうやらそれは過去に起こった出来事を3分26秒だけ削除する事ができるらしい。その機械をKMDと名付け、親友のハルらと共に様々な都合の悪い出来事を削除していくグッチ。だけどやがて彼らは気付いてゆく。過去を削除しても思い通りにならない事があることを。そして軽い気持で削除した過去も、かけがえのない取り返しようのない大切な過去であることを。

 物語はKMDを巡る時間SF冒険譚と連動して、車イス生活を送っているハルとグッチの兄の間にあったある痛切な事件を巡るミステリー的な謎ときが描かれる。

 

 単行本版の帯には評論家・大森望氏の以下のような言葉が寄せられている。

<時間ものにまだこんなすごい奥の手があったなんて……。今までの人生からどの3分26秒を消したいか、考えはじめたら夜も眠れません>

 読み終えた読者は同様の感想を抱くに違いない。

 作中でも描かれているが、人生の肝心な部分は数分間でしかなかったりする。その数分間がなかった事になるだけでその後の人生は大きく変わっていただろう。
 あの時あの人と会わなければ……あの時あんな事を言わなければ……あの時あの場所を通りかからなければ……考えはじめたらきりがない。

 作者自身はサイト「楽天ブックス」に掲載されたインタビューにおいて、

<消したいと思うことはたくさんあります。我ながらひどいできの落選作を応募しようとする瞬間、とか(笑)。ただ、実際に装置を持っていたとしたら、そういう、今の自分にも関わってきそうなことは結局は消せないと思います。それよりも、飼い犬に噛まれた、とかのこぢんまりしたことを消したいです(笑)>

 と述べている。

 過去を改変するのではなく、数分だけ「削除」する。そんな突飛な発想で作者は生き生きとした青春小説を書き上げている。

 

 削除。僕らもPC上で文書を作ったりファイルを整理したりする時に何気なく使っているが、思わず削除してしまったものが大切なものだったためにがっくりと肩を落とす、という経験は誰にでもあるだろう。それが時間であった場合、それは何人にも取り返しはつかないものになる。
 時間というものの不可逆性を残しつつ未来を変更してみせる「削除」。大森氏の言うとおり、新たな時間SFの可能性を示しているのかも。

 小学生である主人公の一人称で描かれながら、あえて大人と変わらない口調で書かれており、それが子供社会のルールや人間関係を鮮やかに活写している。
 しかしまあ、だからこそ実写映像化は難しいだろうな、とも思う。アニメだったら可能かな。『時をかける少女』みたいな感じで。

 それはさておき単純にエンターテイメント小説として面白い。物足りない部分もあるものの、下地はあるようなのでさらに経験を重ねたらもっといい作家になるだろうな。
 ……と思っていたものの、その後この作者が発表したのは2007年の『ラットレース』のみ。今はいったい何やってるんでしょうか。同い年だけに気になります。

 刊行直後は、2000万円の大賞受賞作がこれかい!という批判的な評価が多かったのだが、『KAGEROU』騒動の余波で再評価されないだろうかと密かに期待していたんだけど。
 すごい新作を発表してくれるのを期待しています。

 

 第1回ポプラ社小説大賞受賞作『3分26秒の削除ボーイズ ぼくと春とコウモリと』を改題のうえ加筆。ちなみにこの時最終候補に残っていた『太陽のあくび』(有間香)は後に第16回電撃小説大賞メディアワークス文庫賞を受賞し、2009年にメディアワークス文庫から刊行されている(有間カオル名義)。
 その後、第5回の『KAGEROU』まで大賞はでなかった。

[読書]死んでいるかしら

 

 

 今年もノーベル賞の発表の季節になって、もうこの時期の恒例みたいになっている村上春樹文学賞なるかどうかの騒動で今年もマスコミは持ちきりだった。

 そもそもノーベル文学賞は候補者を毎年発表していない訳で、獲るかどうかってのは予想屋が勝手に予想して騒いでいるに過ぎない。

 村上春樹は実際ノミネートされているかどうかも分からない賞の事で毎年騒がれてウンザリしてるのではなかろうか。

 日本人のノーベル文学賞受賞者といえば現在までに川端康成大江健三郎の2人がいるが、川端康成は受賞時、「翻訳者のおかげで評価されたのではないか」と『雪国』を英訳したエドワード・G・サイデンステッカー博士に賞金の半分を渡そうとしたそうだ。

 評論家・翻訳者の大森望は著書の中でこう述べている。

<たとえ意識していなくても、ある作品を面白いと思ったりつまらないと思ったりするのが、じつは相当程度まで翻訳の出来に左右されている可能性は高い>(『特盛!SF翻訳講座』研究社、p171)

 

 海外小説が好きな人なら必ずお世話になっている翻訳者。普段、本を読む上でその存在を意識する事はあまりない。それは「普通に訳している」のが当たり前、という前提があるからだ。

 

 明治や大正の時代には海外の小説を時には流行作家が自由に翻案したりもしたようだが、現代ではこういうのはほとんど見られない。基本的に英語の原文を忠実に日本語に書き換えている、という前提で僕らは読んでいるから、その小説が面白かった/つまらなかったという判断をするときに矛先を向けるのは作者の方だ。

 でもそこには翻訳者のセンスや知識が多少なりとも介在している。もしかしたらあなたが海外小説を読んで「これつまらんな」と感じたとしたら、それは作者のせいではなく翻訳者のせいかも知れない。

 人間がバベルの塔を造ろうとした時に神様は罰として言語をバラバラにしたそうだから、言語の相違によるすれ違い、悲喜劇というのはその頃から始まったのだろう。
 ただ僕個人の印象で言うと、翻訳者には名文家が多い。様々な作家の様々な文章に触れているからか、話題も幅広い。だから、翻訳者のエッセイには面白いものが多い。ような気がする。

 

 前置きが長くなったが、『死んでいるかしら』は現代英米文学を多く訳している柴田元幸が徒然綴るエッセイである。P・オースター、S・ミルハウザー、T・ピンチョン、S・エリクソンなど多くの翻訳の実績を残しており、日本の文学界における貢献度は非常に高い人物である。Wikipediaによるとレベッカ・ブラウンなどは本国アメリカよりも日本での方が人気が高いそうだから、その訳文の質の高さが伺える。

 本書は柴田氏が様々な媒体に発表したエッセイをまとめたもので、単行本は1997年刊行なのでもう18年も前である。文庫化にあたって2編新たに収録されているが、そういうワケなので全体的に話題は古い。なにしろ20世紀のエッセイなのだから、アメリカの同時多発テロ東日本大震災も起きていない。しかし柴田氏は講談社エッセイ賞を受賞した事もある程のエッセイの名手。話題は古びていてもその面白さは変わらないのだ。だからこそ現在に文庫化されるのだろう。

 

 教員を勤める大学の話や自分が暮らす土地の話、日常にふと思ったことや何気ない話題を面白おかしく書いたものが大半だが、趣味である音楽の話題も多い。デパート等で耳にする当たり障りのないBGMの事を「エレベーター・ミュージック」もしくは「ミューザック」と呼ぶなんて知りませんでした。

 もちろん本業である翻訳に関する話題も多く、英語に関するちょっとタメになる話は興味深い。
 例えばcrocodileとalligatorの話などは、日本語で同じ「ワニ」とひとまとめにしてしまう2種類の生き物について実に軽妙に、そして人を喰った筆さばきで書いている。いわゆる「クロコダイルの涙」のエピソードも出てくる。

 そもそも題名からしてワケがわからない。「死んでいるかしら」なんて言葉を使う場面なんて人生においてそうそう無い。でも柴田氏は思うようなのだ。自分はもう死んでいるのではないだろうか、と。あくまで軽いノリで書いてはいるが、なんかこの主題で本が一冊くらい書けるのではないか、とちょっと考えさせられた。ちなみに英語では“Wonder If I'm Dead"だそうです。

 

 そんな感じで読者を微妙に哲学的な気持にさせながら翻訳者の日常は綴られていく。<いつの時代でも、薄めの文庫本は普通の醬油ラーメンあたりと、厚めのやつはチャーシューメンあたりと、価格的にもだいたい対応しているように思う>(本書p115)とか妙に納得させられました。笑ったり頷いたりして、読み終わった後には幸福って何だろうな、とか少しだけ思いを馳せてしまった。

 本書ではきたむらさとしのイラストも非常にいい味を出しているんだけど、柴田氏の似顔絵は本人によく似ている上に愛嬌があって良い。その他のイラストもエッセイの内容をよく表現している。
 もちろんの事だが海外文学に関する話題も盛りだくさんなので海外文学ファンにも読みごたえありだ。

[読書]銃とチョコレート

 

銃とチョコレート (講談社ノベルス)

銃とチョコレート (講談社ノベルス)

 

 

 その国では富豪を狙った強盗事件が多発していた。「GODIVA」と名乗る怪盗を国民は怖れたが、ゴディバを追う探偵ロイズは子供たちのヒーローだ。

 移民の子と呼ばれ周囲から辛辣な扱いを受けている少年リンツにとってもロイズは憧れの存在。そんなある日リンツは父親の形見である聖書から謎の地図を見つける。どうやらそれが怪盗ゴディバにつながるヒントだという事に気づいたリンツは探偵ロイズに連絡を取るのだが……。

 気丈な母メリー、いじめっ子のドゥバイヨル、探偵助手ブラウニー。たくさんの個性的な登場人物たちが描き出す宝探しの冒険。少年の頃に夢見た冒険の始まり。

 

 この本は2006年に講談社ジュブナイル叢書「ミステリーランド」の第10弾として刊行された。この叢書では凄腕のミステリー作家たちが子供向けにひねりのある作品を書き下ろしているが、本書も例にもれず単なる子供向けの冒険小説では終わっていない。

 なにしろ乙一である。一見単純に見えてそこには大人が読んでも十分楽しめるほど濃密な「物語」が描き込まれている。差別、憎悪、戦争、思惑、欲……。主人公たちの胸躍る冒険の根底に大人たちの身勝手で生み出された世の中の暗部が刻み込まれており、子供たちはそれに振り回されながら必死に真実を追い求めていく。

 

<「それが正義?」
 「こんとんさ。もうすこしおとなになればきみもわかるさ」>

 

 乙一作品で子供向け作品って珍しいな、と一瞬思っちゃったけど、よく考えたらもともと彼の小説は子供が主人公の作品も多いし、内容の重さに関わらず平易な文章で書かれている。同じ作品が大人向けの単行本と、ライトノベルレーベルの文庫の両方から刊行されていたりするし、特に珍しいものでもないのかも知れない。
 というか、最近の作家は子供向け(ライトノベル)とか大人向けとかそう線引きすることにあまり意味は無いように思える人も多いので、乙一もそのタイプなのかも。この本だってひらがなが多く漢字にふりがながふられていたり、「ミステリーランド」という子供向けの叢書から刊行されたりしてはいるが、通常の単行本で最初から刊行されてても違和感はなかっただろう。

 

 しかしそれでもこの「ミステリーランド」」版の装丁はイイ感じだ。本文に素晴らしいイラストが添えられているからだ。平田秀一による雰囲気たっぷりのイラストは、奇妙にファンタジックで奇妙にグロテスクだ。ワクワクしながら本を開いた少年読者たちは恐らくこのイラストの不気味さが目に焼き付いてしまうのではないか。
 でもそれもストーリーを読み進めるうちに脳に馴染んでくる。キャラクターに愛着さえ湧いてくる。都市の空気感までも描き出してまるで自分が訪れた事のある土地のようにさえ思えてくる。作中では舞台がどこの国のどこの時代なのかは明示されていない。ヨーロッパの雰囲気を持ったどこかの国のある時代。そんな世界を見事に視覚化したイラストは一度見たら忘れられない強烈さだ。
 今調べたら、平田秀一は映画『メトロポリス』や『イノセンス』の美術監督を務めた人らしい。さすが細部までぬかりがない。

 

 そして少年たちの物語は大人たちの悪意にもめげずに核心へと近づいていく。無論叢書がミステリーランドで作者が乙一である以上、一筋縄でいく訳がない。
 どんでん返しの連続に物語は何度もひっくり返され読者の予想もつかない方向へ転がっていく。読み終えたあと、ほとんどのキャラクターについて読み始めた当初とは印象が変わっていることだろう。
 そして意外な事件の真相。あらゆる伏線が回収され、なるほどそういうことかと読み手をニヤリとさせるだろう。

 

<拳銃のせんたんにくらいあながあった。指のつめくらいの小さなあなだった。そこから金属のつぶが発射されるたびに地上から人間がひとり消える。しゅっ、とつぶが出て、ぱんっ、と人生がおわる。とてもかんたんだ。チョコレートが口の中でとけるよりもはやくものごとをすませられるのだ>

 

 タイトルは銃という大人の世界とチョコレートという子供の世界が絡み合う物語のストーリー全体を表しているのかも知れない。銃とチョコレートの共通点はどちらも黒いこと。でもって人生は甘くない。そしてお気づき通り登場人物の名前がチョコレートにまつわる名前になっている。なかなか手が込んでいる。
 チョコレートを食べるたびにこの物語を思い出してしまうかも知れないな。

 

 巻末、あとがきらしきもので乙一が自分が子供だったころの事について書いている。短い文章だが、乙一らしいなあと思わせる。児童書の叢書に書く事になった時、作者のそんな少年時代がどこか作品のエッセンスとなったのだろう。
 だから何度も繰り返すけど、子供向けの外見に読まず嫌いせず、大人にもぜひ触れてもらいたい。ダークで、胸躍る冒険の物語に。
 「ミステリーランド」の凝った造本は大切にしたくなるが、2013年には講談社ノベルス版が刊行されている。残念ながら本文中のイラストは削除されているが、懐がちょっと寂しいという方はこちらをオススメ。

[読書]GOTH

 

GOTH 夜の章 (角川文庫)

GOTH 夜の章 (角川文庫)

 

 

 独自の作風で人気の作家、乙一の衝撃作である。1996年に死体の一人称というトリッキーな技法をいきなり使った『夏と花火と私の死体』でデビューして以降、どちらかというと胸を締め付けるような切ない系の作品を中心に出してきた作者だが、2002年に刊行した本書で凄惨かつグロテスクな犯罪を描き第3回本格ミステリ大賞を受賞した。人がたくさん死に、内蔵がぐちゃぐちゃと出てくる物語だ。

 

 本書は主人公である「僕」とそのクラスメイトである「夜」が巻き込まれる6つの事件を描く。

 ごく普通の高校生の「僕」は、実は心の中で人間の持つ闇の部分に興味を持っている。そんな「僕」の性向を見抜いた同級生の女子「森野夜(もりの・よる)」は、「僕」に興味を抱いているらしく、2人は何かと会話を交わすようになる。それはある種の共感のようなものかも知れなかった。

 そしてある日、「夜」は最近起きている連続殺人事件の犯人のものと思しき手帳を拾う。彼女は「僕」とともにその手帳に書かれた死体を探しに行くのだが……。

 

 2人が遭遇する事件は気分が悪くなるようなものだが、2人の心理は至って淡々としている。まるで夏休みの自由研究でもするように残虐な事件を観察していく。それは純粋に興味本位であり、その性格から奇怪な事件に巻き込まれてしまうこのになるのだ。犯人たちもまた普通の心理では理解できないようなヤバめのキャラばかり登場するのだが、しかし僕は読んでいてそれまでの乙一の作風から大きく外れているという印象は持たなかった。切ない物語も残酷な物語も同じ筆致で書いているのだな。

 タイトルの「GOTH(ゴス)」とは作中でも説明されているように「GOTHIC(ゴシック)」の略で、作中に曰く「文化であり、ファッションであり、スタイル」なのだそうだ。どういう事かと思うが、まあWikipedia的には<例えば闇、死、廃墟、神秘的、異端的、退廃的、色で言えば「黒」といったイメージ>なのだそうだ。

 で、この小説において「GOTH」とは、「人間の暗黒」という意味で使われているようだ。人間の暗黒とは、例えば車に轢かれた犬や猫の死体をつい見てしまうような、闇への興味のことである。

 

 この本の主人公コンビは人の死体や異常犯罪に奇妙な程の執着を示す。惨殺事件の記事を収集し事件現場に物見遊山で赴く。本人たちも自分達が異常者であること認識している。そんな彼らに通常、我々は眉をひそめる。理解できない、と思う。

 しかし心の奥底では誰もがそんな心理を持っているのではないだろうか。やるせない事件がおこる度に現場を想像し、自分なりに残虐なイメージを膨らませているのではないだろうか。死体がひどい状態であると言われれば言われるほど見てみたくなるのではないだろうか。そう考えた時に自分と主人公らの違いって何だろうと思いドキッとする。

 作者自身もそんなGOTHの心理を描写するのに戸惑ったようだ。ありがちな、人間誰もが心の奥底ではGOTHなのだ、とかそういった主張は特に盛り込まれていない。 あくまでそれは見世物として描いている。こんな人間いたら怖いけど凄いよね、みたいな(スピルバーグの映画『激突!』に登場するトラックみたいなものかも)。暗黒に惹かれる心理は危険すぎて、下手な扱い方をしたら読者にトラウマを与えかねないのか。そこらへんの手綱さばきは難しかったのかも。

 

 以後、複数の別名義で小説を刊行したり他の作家と共作したりと活躍の幅を広げていくことになる乙一だが、それまでライトノベル作家のちょっと変わった人みたいな扱いされていたのが、この作品で一般小説作家として認知された事は大きかったと思う。

 ラノベ雑誌に連載されたにも関わらず一般作として単行本で刊行した版元の判断の賜物だろう。ラノベと一般小説ってどこで線引きするんだろう?というお馴染みの疑問はこの小説が刊行された辺りから議論が激しくなっていったような気がする。何となくだけど。

 

 という訳で単行本は2002年に『GOTH リストカット事件』として角川書店から刊行された。単行本はカバー裏にちょっとしたオマケがあり雰囲気たっぷりである。

 2005年には角川文庫から文庫化された。2分冊され『GOTH 夜の章』『同 僕の章』と改題されており、収録作の順番も少し入れ替わっている。個人的にはわざわざ2分冊する必要があったのか、そして順番を入れ替える必要があったのか、とその必要性には少し疑問があるけど、まあ手に取りやすいようにと出版社なりの工夫なのかも知れない。

 2008年に映画化。それに合わせて、映画版で森野夜を演じた高梨臨の写真集に短編を併載した単行本『GOTH モリノヨル』が刊行された。こちらは短編部分だけ抜き出して文庫化され『GOTH番外篇 森野は記念写真を撮りに行くの巻』と改題されている。高梨臨のファンなら単行本を、乙一のファンなら文庫版を、まあ読む価値あり。

 あと何編か書き足したらシリーズ化できそうだけどな。

 あ、そいうえば2003年には大岩ケンヂの手でコミック化されている。主人公2人の雰囲気が上手く再現されていて、しかもちょっとだけエロくなっている点がなかなか良いと思う。

[読書]東京窓景

 

東京窓景

東京窓景

 

 

 いきなりちょっと感傷的な思い出話から始める。

 中学3年生の終わり頃、授業中に自分の席からぼんやりと窓の外を眺めていた。見えるのはいつもの運動場の風景。その時ふと、そうか、卒業したらこの窓から見える景色ってもう見る事ができないんだと突然気づいたのを憶えている。

 今思うと当り前の事で、そんな事にびっくりする事でもないのだけど、その時はそれにずいぶん驚いた気がする。

 中学生活の3年間、普通に目の前にあった風景が手の届かない所に離れてしまうという現実。人が持つ視点というのは無限ではなく有限であるということ。僕はその事に気付き驚いたのだ。

 そして、だからこそきっと人は大切でプライベートな光景を写真という手段で残すのだろう。

 

 『東京窓景(とうきょうまどけい)』 は、『TOKYO NOBODY』(リトル・モア)で2001年度写真家協会新人賞を受賞したフォトグラファー、中野正貴による写真集だ。そこに写し出されているのは、様々な部屋の窓を通した東京の風景である。

 例えば表紙に使われている写真。隅田川のそばにある、あの有名なアサヒスーパードライホールの「炎のオブジェ」が窓の外に圧倒的な存在感を持って佇んでいる。でもその窓枠の内側には布団が敷かれた部屋があって、本や置物がちょこちょこと置かれている。この部屋に居住する人にとっては、その窓から見る「炎のオブジェ」こそが日常なのだろう。

 日本中の人がみんな知っているあの「炎のオブジェ」なのだけど、この部屋から見るそれは、こうして写真として切り取られなければ恐らく日本中のほとんどの人が見る事はできなかった光景。 

 

 そう考えると何だか不思議だ。何もそんな特別なものがなくてもいい。今、あなたがいる場所 ――家だったり学校だったり職場だったりするだろうか―― 、そこからふと顔を上げて窓から見た風景は、世界中の大半の人には見ることのできない風景なのである。十代の頃、僕が教室からぼんやり眺めていた光景のように。
 そして、日本中、世界中には、あなたが一生目にすることのできない「窓景」が恐らく無数に存在している。

 

 中野正貴自身が巻末で考察しているのだが、部屋であれ車であれ電車であれ、そこからの窓ごしの風景は、フレーム(額)付きの映像として我々の脳裏に記憶されているはずなのに、後々思い起こす時、そのフレームは大概知覚されない。そこで意識的に中野氏は「フレーム」を写真の中に焼きつける。部屋の照明、空き缶、弁当……。人々の日常生活がそこにはある。窓の外には有名な風景が広がっていたりするのだけど、日常生活ごしに見えるそれらは言いようのない異質さを持つ。

 窓(フレーム)の外には大勢の人や車が存在していたりするのだけど(窓の清掃をする人まで!)、内側に人が写っている写真は一枚もない。だからこそ逆に内側に想像の余地が大量に残されているようでもある。

 

 大学生の頃、綺麗な景色や夜景を求めていろんな場所を車で友人たちと回ったものだ(良いデートスポットを探そうとしたのである。その努力はほぼ無駄に終わったが)。その時、僕らのような人が、つまり誰でもが行けるようなパブリックな場所からの風景なんて実は開拓され尽くしていて、本当にとっておきの美しい風景なんてのは個人の住宅とかそういう所からしか見えないのではないかと話し合ったことがある。実際どうなのかはわからないが、そんな空想が「部屋」という小さな箱に膨らんだ。

 

 個人的な東京の映像。私たちの知らない東京。窓(フレーム)の内と外。都市に新たな視点を加える写真集である。NHKブックス『東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム』(東浩紀北田暁大)では、装丁にこの写真集から作品が使用されている。

 

 窓が公共とプライベートの境目なのだとしたら、そこから見える風景には個人的な記憶が付随し、人々の多くの思い出が残されているはずだ。国中が大騒ぎになるような大きな出来事が起きた時もそこには極めて個人的な記憶が蓄積されていくだろう。

 だが例えばあの震災の時なんかは、多くのプライベートな風景が破壊され、押し流され、二度と見ることはできなくなってしまったのだろうか。見る人がいなくなってしまった部屋もあるのだろうか。

 とめどないが、そんな事を考えてしまう。

 

 ちなみにAmazonのデータではこの本の発売日が2000年11月15日になっているのだが、奥付によれば初版発行日は2004年11月20日である。

[読書]ラス・マンチャス通信

 

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)

ラス・マンチャス通信 (角川文庫)

 

 

 作品ごとに多彩な世界を展開する平山瑞穂。本書はその平山瑞穂のデビュー作にして第16回日本ファンタジーノベル大賞受賞作である。その変幻自在な作風の原点はここにある、はず。しかしきっと読者は戸惑うに違いない。この小説は多彩な作風を持つ平山瑞穂そのものを表すかのように多面的な形を見せ、読者を幻惑の世界に誘い込むからだ。もはやファンタジーなのかホラーなのかも曖昧だ。

 

 何処にいても何をしていても僕を追ってくる「黒い染み(ラス・マンチャス)」。僕の行く手を覆うそれから、決して逃げることはできない。

 僕は常に正しく行動している。姉を犯そうとした「アレ」や、灰が降り続く町の「ゴッチャリ」、無為に過ごす「山荘」の日々――。様々なものが僕を待ち受けているけど、僕の逃げ場はどこにも、ない。

 奇怪でいて耽美、奇妙でいて美麗。この作者にしか描けない世界を作り上げ、日本ファンタジーノベル大賞選考委員の鈴木光司をして「選考委員になっていちばん面白かった作品」と絶賛させた。

 そこらのなまぬるいファンタジー小説と比べたらその雰囲気はひと味もふた味も違う。というか、違いすぎる。その異様なまでに独特な世界観はきっと何とも似ていない。

 

 ストーリーは何とも説明し辛い。それは5つの章に分かれていて、一応主人公の“僕”とその家族、そしてその周囲の人々を巡る物語らしきものがある。
 しかし、文章だけでは想像もつかないような謎の異形が次々と登場、さらにどことも知れぬ空間を描きだしていて、なんだか異世界みたいだがそこは紛れもなく現代の日本のようでもある。
 うーむ、なんとも説明し辛い。

 

 単行本版の帯には<カフカマルケス+?=正体不明の肌触り>というキャッチコピーが書かれているが、きっと版元の編集者たちもこの不思議な小説を一言で表すコトバを探すのに苦労したのだろう。
 でもカフカの不条理さ、マルケスの魔術的手法、そして平山瑞穂が繰り出す何か、それらが融合した独特の雰囲気というのは確かに言い得て妙だ。

 そんな感触の中、主人公である“僕”の視点から彼の成長が語られていく。

 

 何だかよくわからないうちに物語にぐいぐいと引っ張られて先へ先へと読み進んでしまう感じは、ドラッグのトリップ感にも似ているのかも知れない。やったことないけど。何と言うか、その目が眩む感覚の足元には確実に現実の世界があり、この世界と地続きの悪酔いというか、そんな感じにくらくらする。
 グロテスクになるギリギリの部分でグロテスクになっているようで、どうも読み手を選ぶ作品ではあるけど、これが新人の作品だというのだから驚かされる。

 

<ああ、自分は今、取り返しのつかないことをしつつあるな、と認識していた>

<地獄から抜け出す方法がわかっていながら、どういうわけか自力で抜け出すことができない>

 

 主人公は様々な町に移り住みながら、思わぬ事態に遭遇し不本意な人生を送っていくことになる。ストーリーは相変わらずよくわからないが、それでも僕は読み進めるうちに終盤ではすっかりこの主人公に感情移入してしまっていた。

 そして意外な事に、このまま振り切ってブン投げてしまうかと思いきやラストではある衝撃的な事件が起き、ある程度ドラマチックなクライマックスのようなものも用意されている。そしてそこでこれがあくまでも正気の世界での出来事であることを読者に再認識させるのだ。それはあくまでこの世界での正気であるのだけど。

 表現しにくいんだけど、この感じが平山瑞穂作品の持ち味なのだと思う。

 

 ダークな世界で生きていく主人公にまとわりつく「染み(ラ・マンチャ)」。外国で製作された映画のように現実感のない現実が浸食されていく。
 きっと本読みの玄人もうならせることは間違いない。どこでも味わえない小説体験を求める人に。闇の世界からの通信を平山瑞穂が届ける。

 

 2004年新潮社から単行本刊行。表紙イラストは田中達之。すごくこの本の雰囲気にあったイラストだと思うのだけど、作者のブログによると既存作品を使ったのだとか。驚き。2008年角川文庫から文庫化。表紙は榎本耕一のイラストに変更されてしまっているが、こちらもなかなかいい感じの表紙になっています。

 ちなみに詳しいことはわからないが、台湾や韓国でも翻訳出版されているらしい。