ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


自己紹介とこのブログの内容についての説明は こちら。

[読書]凍える森

 

凍える森 (集英社文庫)

凍える森 (集英社文庫)

 

 

 不謹慎を承知の上で書くが、迷宮入り事件というのは人の好奇心を強く刺激する。その経緯にミステリアスな要素があったりすると好奇心はますます強くなる。

 事件発生当初はその記憶の生々しさや生存している関係者とのしがらみなどで事件の話題は一種の禁忌扱いされるものだが、時間が経過するにつれて人々はやがて興味本位で詮索するようになる。ある種「歴史上のできごと」になってしまうからだろう。

 だから少し考えただけでも多くの迷宮入り事件が思い浮かぶのではないか。近年でも奇怪で不気味で、犯人のつかまっていない事件はいくつも起こっている。さかのぼっていけば、恐らく史上最も有名な迷宮入り事件である「切り裂きジャック事件」や、国内でも国鉄史上に残る重大な「下山事件」等、歴史の闇に埋もれてしまった事件が数多く謎を残している。

 迷宮入りになった事件は我々の想像力を刺激的に掻き立て、多くの文学や映像作品に影響を与えてきた。今パッと思いつくだけでも米国の「ゾディアック事件」を扱ったハリウッド映画『ゾディアック』や、韓国の「華城連続殺人事件」を題材とした映画『殺人の追憶』等多くの作品が生み出されている。

 日本では2010年4月に殺人罪等の公訴時効が廃止されたため、迷宮入り事件というものの取り扱い方は今後変化していくのかもしれない。

 

 前置きが長くなったが、本書はドイツ史上最大のミステリーとされる迷宮入り事件「ヒンターカイフェック事件」を描き、本国でベストセラーとなった小説である。2007年ドイツミステリー大賞国内スリラー部門、フリードリヒ・グラウザー賞新人賞、マルティン・ベック賞(スウェーデン)の受賞作。

 「ヒンターカイフェック事件」は、1922年3月31日から4月1日にかけて南バイエルンの片田舎ヒンターカイフェックの農家で起こった猟奇的かつ残忍な事件で、一晩のうちに農場に暮らす6名がつるはしによって殺害された。さらにこの事件に異常性をもたらしていたのは、殺人犯が犯行後も数日間にわたって現場に居残っていたと思われることである。家畜には餌がやられ、生活の痕跡が残されていた。

 事件が発覚したのは4月4日、農家の姿が見えない事を不審に思った村の人たちが遺体を発見したのである。なぜ4日も事件が発覚しなかったのか。それは殺された農家が人里離れたところに住んでいたことと、変わり者だったため村の人々たちから敬遠されていたことも恐らく無関係ではない。

 以上のように、極めて奇妙で異常な殺人事件だが、現在に至るまで解決はされていない。1986年まで警察によって事情聴取が行われていたというから、警察も懸命に捜査をしていたのだろう。

 

 そんな謎に挑んだ作家がそれまで小説を書いたことなどないごく普通の専業主婦だったというのだから驚く。アンドレア・M・シェンケルは2006年、本書(原題“Tannöd”)でデビューするやドイツの出版界を席巻し、批評家から絶賛されたそうだ。

 シェンケルが評価されたのはその臨場感あふれる筆致であろう。迷宮入りのミステリアスな事件を扱っているのにも関わらず本書には探偵役や刑事は登場しない。殺害された農家をはじめとして、その周囲の人間や村の人たちの証言を一人称で描写しながら事件は進行していく。舞台は1950年代に変更され登場人物の名前も実際とは変えられてはいるが、その空気感はリアルだ。というか第二次世界大戦後を舞台にしたのはドイツの人にとってあの時代は特別な空気があったからではないだろうか。

 様々な角度から様々な視点で事件を浮き彫りにしていく様はまるで芥川龍之介の『藪の中』のよう。読者はまるで自分が当事者になったかのような、事件に立ち会っているかのような感覚になる。

 そして驚くことにそんな手法を使いつつ、この本で作者は丁寧に出来事を積み重ね、ある人物を犯人として物語の最後で提示している。

 

 人々の証言で明らかになる凄惨な事件の概要。陰鬱な農村の人間関係。闇に包まれた怨恨と陰惨な因習の息詰まるような悲劇。

 凍える森の中であの夜何があったのか。

 内容の重さの割に物語は短く、文章も読みやすいので読み終えるのにあまり時間はかからないと思う。しかしこの本が読み手の脳裏に残す印象は強烈だ。
 そういえばこの本、本国ドイツでは2009年に本書と同じ“Tannöd”のタイトルで映画化されているらしい。監督はベティナ・オベルリという人。ざっと調べてみたのだけど日本では公開もソフト化もされてないっぽい。動画サイトで予告編とかは見れるから雰囲気は味わえる。

 

 ところでどうだろう。ここまで読んでこの事件の内容に何となく興味が出てきたのではないだろうか。決して明るみに出す事はないが、人の心理には迷宮入りになった謎や猟奇的な事件への興味が隠されていると思う。暗い好奇心が事件への興味をかきたてる。殺人犯になるかどうかはその興味本位を実行に移すか移さないかの違いだけなのかも知れない……とか思ってしまうのだが、どうなのだろう。

 なぜ世の中ではこんなにも多くの迷宮入り事件が起きているのだろうか。

[読書]永劫回帰

 

永劫回帰 (創元推理文庫)

永劫回帰 (創元推理文庫)

 

 

 宇宙を旅する男キャプテン=ヨアヒム・ボアズは、不具だった身体を哲学者コロネーダーらによって改造されていた。それは珪素の骨をとりつけられた一種の超人である。しかし不慮の事故のため珪素骨と感覚器官の痛みを感じる機能が結合、地獄の苦痛を延々と味わうことになってしまう。宇宙が定められた円環構造を幾度も繰り返すために同じ地獄の苦しみを何度も経験する羽目になった彼は、ある決断をする。

 宇宙の円環をぶち壊し、苦痛から解放されるのだ。

 

 バリントン・J・ベイリーのワイドスクリーン・バロック“The Pillars of Eternity”の邦訳だ。巻末の解説で述べられているとおり、1人の男が宇宙を相手に闘いを挑むというびっくりするようなスケールのでかい宇宙SFである。並の作家なら思いついても手に負えなくて書かないような途方もないスケールのSFをマジで書いてしまうのが奇想の作家ベイリーなのである。

 しかも、とんでもない冒険物語を描きながらも哲学の領域にまで足を踏み込んで、運命論のようなものまで論じてみせる。そもそも「永劫回帰」という言葉自体ニーチェの思想である。科学理論も含めどことなくハッタリで煙に巻かれている気もするのだが、ベイリーは力技で宇宙をねじ伏せる。

 かくして主人公ボアズは宇宙の時を操る力をもつという宝石「時間石(タイム・ジェル)」を求めて壮大な冒険を繰り広げることになるのである。

 

<わからんのか? 宇宙はくりかえすんだぞ。過ぎさったものはすべて、くりかえしくりかえし、永遠に再現されなければならんのだ。過去はおれたちのまえにあるのだぞ>(p152)
<おれは未来を変えなけりゃならん――宿命を破壊し、時間を新しいレールのうえに置いてやるんだ>(p153)

 

 主人公が超人になったのはいいが、そのおかげで延々と激しい苦痛に苛まれるというのが皮肉である。超人であるがゆえに経験しなくてはならない恐ろしいほどの苦痛。常人である我々には想像もつかないような苦しみだろう。

 その上ボアズは自らの宇宙船と機能的にリンクしており、文字通り宇宙船と運命共同体であるという設定もナイス。だからこそ彼は自らを「シップキーパー(宇宙船管理者)」ではなく「キャプテン(船長)」と呼ぶのだ。

 

 自らと宇宙の運命に立ち向かうボアズのもとには様々な仲間が集い、個性的な敵が立ちはだかる。ボアズは果たして目的を達成できるのか。

 経済帝国、光輝星団、放浪惑星(ワンダラー)メアジェイン、鳥頭人(アイビス)……。ベイリーらしい様々なネタ(アイデア)が惜しげもなく投入され、読者を幻惑の世界へ引きずり込んでいく。これだけ濃密にネタを詰め込んでおきながら、300ページ以内というスリムさで大風呂敷を畳んでいる手際の良さは、何かと長大になりがちな最近のSF作家には見習ってほしい。

 

 ベイリーは何事も出し惜しみしないし、どんな無謀な事にも本気だ。そう、そしてベイリーは反抗的だ。それは権力者に対する怒りとか、恋敵に対するライバル心とか、そんなスケールの話ではなく、自然界の法則とか、科学の限界とか、そういう人間の力ではどうしようもないような事に腹を立ててみせるのである。

 解説で中井紀夫が記している通り、自分が我慢ならない事には本気で挑む。宇宙が同じ歴史を何度も何度も繰り返しているなんて我慢できん!となれば相手が宇宙だろうが容赦しない。そんな反抗心がベイリーの書くSFの魅力の1つでもある。

 作中、ある登場人物の手のひらに<勝利などだれが望むか>という言葉が烙印がされているのだが、これなんか実に反抗的だ。

 

<よいか、宇宙の進路を変えられるのは神のみであるからして、結果的にそなたは神になる方法をたずねておるのだぞ>(p195)
<わたしたちは無鉄砲な人種です。だれかが、どこかで、直視できないほどの問題に敢然と立ち向かわなければならないのですよ>(p251)

 

 最後の最後、ボアズがたどり着いた真理とは……それはなかなか意外なものである。これを読んで大笑いしてしまうか、納得してしまうかは読者次第。でもまあ、こういうのもアリかなあという気はする。

 読み終えたあと、人生の見方がちょっと変わってしまうかも知れない。宇宙さえも変えてしまおうというボアズ視点の物語を読み終えてから自分を振り返ってみると、なんだか俺って小さなことで悩んでいたなあと思う。

 大げさに言えばスケール感という認識の変容。そんな感覚を感じることができるのがこのSF小説の最大の面白さだろう。

[読書]火星ダーク・バラード

 

火星ダーク・バラード (ハルキ文庫)

火星ダーク・バラード (ハルキ文庫)

 

 

 2011年に第32回日本SF大賞を受賞するなど現在第一線で活躍中のSF作家・上田早夕里の商業デビュー作にして第4回小松左京賞受賞作。未来の火星を舞台に人間の愛憎を描く力作だ。

 

 未来。人類は火星に進出し「パラテラフォーミング」により都市を建設、多くの人間が移住していた。といっても気温も気圧も地球より低い火星では、都市は巨大な天蓋に覆われ環境がコントロールされている。つまり都市といってもそれは巨大な温室のようなものなのだ。

 火星の治安管理局に勤める刑事の水島は、壮絶な死闘の末に逮捕した殺人犯ジョエル・タニの護送中に謎の現象に遭遇。バディである神月璃奈を亡くした上ジョエルにも逃げられてしまう。

 当局に璃奈の殺人容疑をかけられた水島は、個人的に事件の捜査を始めるが、その過程でアデリーンという少女に出会う。やがてその少女が人類を揺るがすある重大な秘密を持っている事に水島は気付いていく……。

 天蓋に覆われた世界で、2人の孤独な逃亡者が未来を求めて疾走する。

 

 ハードボイルドの感触で描かれるSFサスペンスである。アデリーンはその出自に驚くべき陰謀が関わっており、水島は彼女をその重い運命から解放しようとたった1人で権力に立ち向かい追われる身となる。

 15歳のアデリーンは研究所で育ったため世間知らずで無鉄砲なところがあり、40前のオジサンである水島に男としての魅力を感じるが、ストイックな水島はそれを子供にありがちな一時の気の迷いとして相手にしない。

 冴えない中年男と若々しい少女という配置は実に鮮やかな対比を見せる。かたや残された未来の少ない男。かたや無限の未来が広がる少女。ここらへんはジャン・レノの出世作である映画『レオン』を思い出すね。

 そう、水島はアデリーンの未来のために自分を犠牲にする決意をするのだ。しかし水島に想いを寄せるアデリーンの心は大きく揺れ動く。

 不毛な火星の地と、冷たく暗い宇宙空間をバックに、美しく静かな「ダーク・バラード」が奏でられていく。

 それはどう転んでも暗い未来しか待っていない男と、そんな男を愛してしまった少女の運命を暗示するような「ダーク・ストーリー」でもある。 

 

 遥か科学技術が高度に発達した未来においても、人間の愛情や悲しみは変わる事はない。遠く宇宙に進出し地球の重力から逃れた人類。それは認識の大きな変容を人類にもたらしたはずだが、それでも人が人を想う心は変わらない。変わらないからこそ、そこにはドラマが生まれ、それは誰もが避けようと思っているのにも関わらず悲劇的な結末へ転がって行ってしまう事もある。

 

<私が欲しいのは、どんな未来が訪れても、誰もが自分の選びたい生き方を選ぶことのできる社会だ!>

 

 単純に一人の少女の未来を守ってやりたいという水島の想いの根底には、自らの過去や失ってしまった璃奈への動かしがたい感情があるのだろう。

 火星といえばSFの定番だが、本作ではこの舞台が効果的に使われている。地球から遠く離れ、それでも地球の束縛から逃れることを許されない星。もはや地球が故郷ではない人類も多く、そこには地球への郷愁などなく、なんとなく上から目線でうざったい星だな、くらいの捉えられ方である。

 パラテラフォーミングをはじめとして、軌道エレベータリニアモーターカーなど、魅力的なガジェットが多数登場し、しかもそれらが物語に密接に関わっている。

 科学技術が発達するのに伴って多くのものが闇へと葬られてきた。それらの犠牲の上に築きあげられた巨大な科学の楼閣こそが火星それ自体なのかも知れない。

 

 人が生きるから人と関わらなくてはいけない。だから苦悩や苦痛が生まれる。だから人間というのは愛しい。

 主人公の周囲には様々な人物が関わってくるが、みんな敵とか味方とかに簡単に区別できない人物ばかりである。そしてそれらの登場人物たちが皆自分の大切なものを守るために闘っているのだ。作中で「悪役」を割り当てられているある狂信的な人物についても、ある明確な目標のために目的を達しようとしており、それが人類にとって善であるのか悪であるのかなど誰にも判断できない。

 

 作者は女性であるが、非常に骨太で読後感の重いSF小説だ。ラスト、水島は勝利したのか、それとも……。

 実にハリウッド的なアクション満載の物語であるが、そんじょそこらの監督が映画化しようとしても恐らく、主人公らの繊細な心の動きを映像で描くのは至難の技だろう。

 それだけ重厚な中にもナイーヴさを秘めたハードボイルドなのである。最近は様々なジャンルで活躍しているが、上田早夕里はそんなカッコいいSFが描ける貴重な書き手なのだ。

 

 2003年に角川春樹事務所から単行本刊行。2008年にハルキ文庫で文庫版刊行。文庫化に際し大幅な改稿が施されている。

[読書]晩夏

 

晩夏 (創元推理文庫)

晩夏 (創元推理文庫)

 

 

 夏が過ぎゆこうとしている。もう戻れないところまで来てしまった。沈む陽の名残にけだるい熱気を感じながら、2人は一緒の時間を逃すまいとその光景を目に焼き付けている。その手をしっかりとつないだまま。
 ……などという描写は本書には無いのだけど。でも、何となく読後にそんな情景が瞼に浮かんだ。

 

 図子慧は確かな実力で評価の高い作家だが、実はデビューは集英社のコバルト・ノベル大賞だったそうで、デビュー後しばらくは集英社コバルト文庫で作品を発表していたという。

 1987年にデビューしているから1991年に集英社から単行本が刊行された本書はかなり初期の作品だ。刊行当時の評判がどうだったのかはわからないが、2010年、単行本が刊行されてから何と19年を経て創元推理文庫で登場しファンを驚かせた。

 時代に合わせて多少の修正がされているようではあるが、このように過去出版された隠れた名作が新たな形で読めるようになるのはいい事だと思う。

 

 大学生の想子は、毎年夏を叔母である蓉子のもとで過ごしている。蓉子は代々続く酒造会社の娘で、婿養子である夫が会社の社長を勤めている。

 しかし想子の目当ては蓉子の息子、つまり従兄弟の瑞生だ。病弱で伏せがちな瑞生だが、想子は彼に魅かれていた。イトコだから好きになったのか、好きになったのがイトコだったのか。微妙な関係の2人だが、そんな2人に衝撃的な事件が襲いかかる。蓉子が何者かに殺害されたのだ。

 誰が、何のために? 夏の香川を舞台に青春時代の瑞々しい成長と心の揺れを描くミステリー。

 酒造会社という閉鎖された環境で様々な愛憎が渦巻いていくのが読みどころだ。血縁の因縁。謎めいた過去。罪と罰。そしてその中心にいるのは想子と瑞生である。
 あとがきによると、執筆当時作者は編集者に「ライトノベルを卒業した年齢の女性むけの恋愛もの」を書いてくれと注文されたようだが、結果的にミステリーになってしまったとのこと。しかしやはり編集者の注文は脳裏に残っていたようで、全体的に青春小説としての要素が占める比率が高い。というか、正直ミステリーとしてはいささか物足りない感じすらする。ミステリー風味の青春小説といった所か。今思うとコバルト文庫を主戦場とするラノベから一般作へフィールドを移す過渡期だったんかな。

 

 本の帯には<少女の時代の終わり>というキャッチコピーが書かれているが、主人公の想子は大学生で「少女」という年齢ではない。しかし作者が意図したものかどうか、その描写には確かに少女というイメージがしっくりくる。それは恐らく彼女たちに危うすぎるほどの無垢さを感じるからではないか。
 つまりこれは、年齢的には「大人」である少女が、ひと夏の事件を経て本当の大人になっていく物語なのかも知れない。

 

 従兄弟である瑞生との、禁断(タブー)とまではいかないけど何となく二の足を踏むような繊細な関係性。それが物語の中で重要な要素であるから、やはり女性向けの恋愛小説として良く出来ているような気がする。

 だからまあ、やっぱりこの小説は空気感にどっぷりと浸りたい物語だ。一人の男を想い続ける女性の、成長の過程と共に描写される夏の情景は、端正な筆致で描き出されきっと忘れ難い余韻を残すだろう。

 閉塞感に満ちたストーリーは、殺人事件を巡り不穏なまま進行していく。前述したように正直ミステリーとしては若干平板な展開なので、難物を読み慣れている人には事件の大体の展開が読めてしまうかも。だがそれでも終盤明かされる意外な真相を読んだ後に再度読み返すと、登場人物たちの胸中がまた違った角度から浮かび上がってくるところは人物描写の巧みさかもしれない。

 またクライマックスの緊迫した場面には手に汗握らされる。

 大長編が流行りの最近の小説界において本書の200ページちょっとという簡潔さもいい。ていうかラストはちょっとあっさりしすぎの感もあるが、それはそれで効果的な終わらせ方なのかも。長ければいいというものでもないしね。

 奔放な叔母の死。愛する男の秘密。晩夏は想子の胸に多くの記憶を残し、挽歌は葬列と共に消えてゆく。新たな季節の始まりに、人は戻れない一歩を記していく。

 情感あふれる青春ミステリー。

[読書]グラン・ヴァカンス 廃園の天使I

 

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

グラン・ヴァカンス―廃園の天使〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 僕が子供の頃はファミコンの全盛期で、ロールプレイングゲーム(RPG)なんかは友人達とどこまで進んだか競うようにプレイしたものだった。

 で、RPGで遊んでいるとよくあるのだが、町や村でそこらへんにいる住人に声をかけるとプレイヤー(つまり僕)にとってヒントになるような事を教えてくれる事がある。時間を置いてその人に声をかけると、また同じ事を言う。三たび声をかけても同様だ。

 この人はこのヒントを言うためだけに作られたキャラなのだ。そんなキャラクターを見ていると不思議な気持になる。もし僕がこのゲームを2度とプレイしなくなったら、彼らはあの町で何を考えて何のために生きていくんだろう。

 ……と言っても、もちろん彼らは生きている訳ではない。あくまでゲームの中のキャラである。しかし冒険を進めるうちにその世界に入り込んで、こんな脇役キャラにも感情移入してしまう事は稀ではないと思う。

 

 2002年9月、長きに渡って沈黙していたSF作家・飛浩隆が唐突に長編小説『グラン・ヴァカンス』を発表し読者を驚かせた。

 飛浩隆は80年代から作家活動を行っていたが兼業作家という事もあり発表された作品数は評価は高かったもののあまり多くなく、しかもそれらはどれも短編か中編だった。よってこの作者の小説は一冊の本として刊行されたものが少なく、作品に触れる機会自体が少なかったので若いSFファンの間では半ば伝説上の存在になりかけていた。作者が本書の前に作品を発表したのは1992年。10年の沈黙を破って初の長編を刊行したのである。

 

 ネットワークのどこかに作られた仮想リゾート「数値海岸(コスタ・デル・ヌメロ)」。本来は人間が現実では味わえない体験を求めて訪れる仮想空間であるが、「大途絶(グランド・ダウン)」と呼ばれる原因不明の異変以来なぜか人間が訪れない日々がもう1000年も続いていた。
 人間は来なくなったが、その空間に作られたAI(人工知能)たちの日々は流れている。人間を楽しませるために作られたAIにとってその日々は自らの存在意義を揺るがすものであるが、しかし彼らにはどうしようもない。
 そうして「数値海岸」の一角にある「夏の区界」でもまた同じ夏の1日が始まろうとしていた。南欧の港町を模して造られたその区界で、今日もチェスの得意な少年ジュールは奔放な少女ジュリーと共に海に出かけている。同じ1日。美しい夏の日々。だが突然見慣れた風景は音を立てて崩壊した。いきなり出現した謎の存在「蜘蛛」が「夏の区界」を破壊し始めたのだ。
 AIたちの「存在意義」とは何か。蜘蛛を操る謎の男の正体は。AIたちと蜘蛛の絶望的な戦いが始まり、長い「夏休み(グラン・ヴァカンス)」は終りを告げようとしていた。

 

 冒頭、この物語は静かに幕をあける。目に飛び込むのは眩しいばかりの情景。若い男女の甘酸っぱい関係。デジタルな設定とは裏腹にそこに描かれるのは柔らかい光に満ちた儚くも脆い人々の人生だ。もう人間が訪れることもない仮想空間。打ち捨てられた浜辺。それでもいつかまた人間が来訪する時が来るのではないかとどこかで期待しつつ1000年に渡り同じ夏を繰り返しているAIたち。

 ネットワークの発達と共に生まれた仮想空間という概念は、そこに暮らすAIに一種の人格を見出させる。それに思いを馳せる時、我々は何とも妙な気持になるのではないだろうか。

 本書では読み手のそんな微妙な感情を巧みに刺激しつつ、物語全体をまるで一篇の詩のように織り上げている。こんな精緻な小説を書いていたらそりゃ10年くらいかかるよなあ、と長い空白期間も納得なのである。

 

 仮想空間に暮らすAIたちの物語、という設定自体は刊行当時でも既に目新しいものではなかったが、繊細に書き込まれたディテールとその胸を抉るようなストーリーは高く評価され、「ベストSF2002」国内篇第2位に選ばれるなど飛浩隆の鮮やかな「復活」は大きな話題となった。

 ハッとさせられるのは、読み進めるうちに「夏の区界」の実像が少しずつ明らかになっていく点である。この世界が何のために作られたのか。興を削ぐので詳しくは書かないが、それは明確な目的があり、そしてそこに暗示されるAIたちの悲痛な運命こそが仮想空間を舞台にして書かれた本書の白眉だと思う。

 

 この小説はAIの世界を通して人間を描いている。作者の描く美しい情景に酔ってしまい忘れそうになるが、本書の登場人物は全てAIである。つまり彼らは単なるネットワーク上のデータだ。登場人物全てがAIであるこの小説が、何よりも生々しく人間の性(さが)を浮き彫りにしている。

 終盤、AI対蜘蛛の激しい攻防の中で「苦痛」が重要な要素となって立ち現れてくる。剥き出しの他者を傷つけ、恐怖を与え、壊していく過程がこれでもかと描かれる。引き裂かれるように凄惨だが、息を呑むほど官能的なその様に読者は震撼するしかない。

 本書巻末の「ノート」によると作者は、“放棄された仮想リゾート”という主題のもとに、<清新であること、残酷であること、美しくあること>を心がけて執筆したという。そして<飛にとってSFとはそのような文芸だからである>と続ける。

 兼業でありながらこういう作家としての感覚を研ぎ澄ましている事に凄みを感じる。

 

 本書は2002年に「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」から単行本が刊行された後、2006年にハヤカワ文庫JAから文庫化されている。

 前述の「ノート」によればこの小説は、<〈廃園の天使〉の名で書かれる連作の第一作にあたる>そうで、作者自身は<おそらく三つの長編といくつかの中短編で構成されることになるような気が、なんとなくしないでもない(笑)>と述べている。

 ところが2006年に中短編集『ラギッド・ガール 廃園の天使II』が刊行されたものの、それ以降シリーズの作品は発表されていない。10年近くが経過しているが、この連作について作者はまたもや沈黙してしまったのが残念ではある。

 ちなみに2013年にはハードコアコンテンポラリーダンスカンパニー「大橋可也&ダンサーズ」によってダンス化されている。すいませんダンスとかあまり詳しくわからないのですが、SF小説がダンス化されるというのは珍しいように思います。

 ああ、それにしてもこのシリーズの長編が読みたいなあ。気長に待つしかないか。

 

<物語の登場人物は一ページめが捲られたその瞬間に、記憶を持つ。過去を所有する。物語が始まる前の記憶を、物語が始まるまさにその瞬間に、具備するのだ。だが、どこでその経験をしたのか。いつその記憶を蓄積したのか>(p69)

[読書]どこかにいってしまったものたち

 

どこかにいってしまったものたち

どこかにいってしまったものたち

 

  

 明治から続く商店、クラフト・エヴィング商會のたくさんの引き出しの中に、「どこかにいってしまったものたち」とラベルが貼られた引き出しがある。そこにはかつてクラフト・エヴィング商會が扱っていたものの、様々な事情により現物が失われてしまったものについての資料が入っている。


 現物のない解説書や宣伝チラシ……。そこから見えてくる、今はどこかにいってしまった不思議な商品の数々。レトロな雰囲気を纏いつつ、流れ星のようにきらきらと一瞬だけ僕らの脳裏に姿を垣間見せる不思議なものたち。
 この本は、そんなクラフト・エヴィング商會の引き出しの奥に眠っている品々たちのカタログだ。「迷走思考修復機」「全記憶再生装置」「中國的水晶万年筆」「流星シラップソーダ」「空中寝台」……。名前を聞いただけで空想が無限に広がるようなワクワク感を与えてくれる。
 失われてしまったものたちへの限りないノスタルジーと、未来へ続く幻惑の美品たちの世界へ足を踏み入れたい。

 

 この本で紹介されているのは、例えば次のような商品だ。 

 

「月光光線銃」(大正14年/東洋電氣株式會社) 

 月の光を吸収し、その光を発射する光線銃。限定発売されたもので、本書で紹介されているのは通し番号32番。クラフト・エヴィング商會にはこれの解説カード30枚のうち6枚のみが残されている。音もなく発射される美しい月の光が目に浮かぶ。

「時間幻燈機」(大正11年/舶来通信株式會社) 

 失われた建造物を西の方角に映し出す機械。古い建物自体が「ひとつの時間の集積」という考えに基づいている。本体とともに付属の計算機械も現在は喪失。皮肉にも関東大震災により製作会社自体が焼け落ちてしまったため、この夢のような機械は永遠に失われてしまった。

「人造虹製造猿」(昭和3年/文化製造生活社開発立案第2支部) 

 30センチあまりの木製の猿の人形が、開いた両手の間に虹を浮かび上がらせる。当時人気のあまりか大量のコピー商品が出回ったとか。かつてこのような猿が実在していたという伝説めいたエピソードも残されている。収納箱と解説書、告知ポスターといったものがクラフト・エヴィング商會に残されている。

 

 こんな幻惑の商品たちの現物でなく残された痕跡だけを集めたカタログ本というのがユニークだ。

 

 巻末で作者自身があっさりネタ明かしをしているので書いてしまうが、<本書のすべては、あたかも本当のことのように造られた架空のものであり、まったくのフィクション>なのだという。まあ、読み進めるうちに誰でも気付いてしまうとは思うんだけど、それでも本当にこんな商品あればどんなに楽しいだろうか、と思わずにはいられず、きっと読者はあえて騙されてしまう。本の帯では脚本家の三谷幸喜が<祖父が大事にしていた「万物結晶器」。僕の涙を結晶化してくれた時、祖父はとても得意そうな顔をしていました。……そういえばあれってどこにいってしまったんだろう。>と粋なコメントを寄せている。

 

 その他にもSF作家・評論家の森下一仁は1997年7月22日にホームページ上の日記(この頃は「ブログ」なんてなかったなあ)で、<夢のかけらを結晶させて、時間の流れの中に埋めてしまう――そんな感じ>と本書に触れており、そのエッセンスに共感している模様。単なるノスタルジーではなくて、そこに想像力の破片をひとかけら落とし込むだけでこんなにも美しい宇宙が広がっていく。
 西洋と日本文化が絶妙に入り混じった感じも、商品に奇妙奇天烈な魅力を与えている。

 

 僕もこの本を手に取るまで知らなかったのだけど、調べてみたところ、作者の「クラフト・エヴィング商會」は“店主”吉田浩美さんと“番頭”吉田篤弘さんの夫婦によるユニットらしく、本書中に登場する魅惑的な商品の数々も本人たちの手によるものだそう。しかも本の装丁なんかも数多く手掛けているそうで、本好きなら知らないうちに手にとった事があるかも。

 まあこういう風に明かしてしまうと愉しみが半減してしまうが、それを知っていてもこの本の世界に引き込まれてしまうことは確実だろう。

 いやあ、雰囲気あります。どこかオシャレで遊び心があって、ちょい不思議な手触りの世界が好きな人ならハマる本。単行本で2000円以上するのでちょっと尻込みしてしまいそうだが、これは文庫サイズで読んでも伝わらないかも。だから文庫化されてないんだろうか。

 

 どこか懐かしくて、それでいて超現実的で、不思議な「どこかへいってしまったものたち」。その残像を眺めながら、空想を羽ばたかせる時間は永遠に結晶化されるものなのかも知れない。
 もしかしてこれらは僕らの暮らす世界とは違うもう1つの世界に実在するものなのかも知れないしね。

[読書]この不思議な地球で 世紀末SF傑作選

 

この不思議な地球で―世紀末SF傑作選

この不思議な地球で―世紀末SF傑作選

 

 

 1996年に刊行されたアンソロジー『この不思議な地球で』は、巽孝之の選による<ポスト・サイバーパンク決定版>という位置づけらしい。20世紀終盤に世界のSFに巻き起こったサイバーパンク・ムーブメント以後を俯瞰する、労作アンソロジーだ。

 

 ともあれ当時はSFの最前線を詰め込んだ魅惑的なアンソロジーだったのだろうと思うが、今見るとその作品の空気にはやはりどこか「すら感じてしまう。

 ミレニアム(西暦2000年)の狂騒、21世紀への突入、そしてそれとほぼ時期を同じくする9・11の衝撃。これらを経験した僕らが、再度世紀末のSFを見渡すことにどんな意味があるのだろう。21世紀もすでに15年が経過しようとしている。僕らはいつの間にかとんでもなく遠いところに足を踏み入れてしまっている。

 収録作品は次の通り。

 

「スキナーの部屋」

 (Skinner's Room/1990/W・ギブスン/浅倉久志訳)

「われらが神経チェルノブイリ

 (Our Neural Chernobyl/1988/B・スターリング/小川隆訳) 

「ロマンティック・ラヴ撲滅記」

 (The Eradication of Romantic Love/1990/P・マーフィ/小谷真理訳)

「存在の大いなる連鎖」

 (Great Chain of Being/1990/M・ディケンズ後藤和彦訳)

「秘儀」

 (The Secret Sequence/1995,1996/I・クリアーノ&H・ウィースナー/秋端勉訳)

「消えた少年たち」

 (Lost Boys/1989/O・S・カード/風見潤訳)

「きみの話をしてくれないか」

 (Tell Me About Yourself/1973/F・M・バズビー/北沢克彦訳)

「無原罪」

 (The Immaculate/1991/S・コンスタンティン増田まもる訳)

「アチュルの月に」

 (In the Month of Athyr/1992/E・ハンド/浅羽莢子訳)

「火星からのメッセージ」

 (The Message From Mars/1992/J・G・バラード/巽孝之訳)

 

 現代SFを代表する錚々たる作家たちの作品が並ぶ。名前を見ただけで20世紀を表現するのに最適な作家ばかりだとわかる。ちなみに収録作品中「秘儀」、「きみの話をしてくれないか」、「アチュルの月に」、「火星からのメッセージ」が新訳である。

 全体を通して読み進めていくと、新たな世紀への期待とか、不安とか、願望とか、幻視とか、そういったものが作中に書き込まれているのを読み取ることもできるかも知れないが、それも今となっては後付けだ。2015年にもなればいくらでも穿った見方でこれらの作品を眺めることができてしまう。


 20世紀後半に「ニュー・ウェーヴ」と呼ばれるムーブメントを牽引したSF作家J・G・バラードは「唯一の未知の惑星(エイリアン・プラネット)は地球だ」と語り、そこを探検していった。そしてこのアンソロジーの編者・巽孝之は「不思議な地球(エイリアン・プラネット)」の奥深く、「世紀末」という興味深い領域へと探検を進めていく。

 戦慄すべきヴィジョンを描きだすSF群。橋の上に築かれた文明、生命を得たかのようなコンピュータ・ウィルス、誘拐された少年たち、仮想現実。混沌とした、様々なイメージが新世紀を挑発するかのように鮮烈に瞬いていく。思ったより作品のタイプの幅が広くて驚いた。

 特に本の後半では、死姦や性奴隷といった退廃し歪んだ性のイメージが世界を覆う。これらを読んでいると、SFが進化していく中においてはセックスというタブーとそれに伴うテクノロジーの飛躍が、20世紀のある重要なテーマであったのかな、と思う。

 

 作品それぞれの重要性もさることながら、20世紀末に「その時点から見た20世紀」の空気感をアンソロジーで刻み残した編者・巽孝之の労力には恐れ入る。

 アンソロジーの役割は書籍化されにくい小説を紹介していく事の他に、そこにもあるのだろう。

 だから今この本を読み返すことにはもちろん意味がある。21世紀のはじまりが終わり、9・11以降の変容した世界を生き抜いていくしかない僕らにとって、世紀末が描いた未来のヴィジョンは何らかの新たな道筋を示してくれるのではないか。
 世紀末そして新世紀という時代を経験した僕らが、歩む道を。