ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]雨恋

 

雨恋 (新潮文庫)

雨恋 (新潮文庫)

 

 

 僕が住む沖縄は、例年なら今頃とっくに梅雨に入っているのだが今年は何故かカンカン照りの日が続いている。いつもは「雨なんかウンザリだ!」と恨み節なのだが、この時期に雨が降らないとそれはそれでダムの貯水率なんかが気になってくる。人間なんて勝手なものだ。それにしても夏場の水不足が心配だなあ。

 雨の事を考えると思い出す物語がある。

 <その年は雨が多かった>
 それは、そんな書き出しから始まる物語。

 

 会社員の沼野渉はその年、恋人にふられた上、些細な事から住んでいた部屋からも出なくてはいけなくなってしまう。散々な目に遭いながらも、叔母が海外に長期出張している間、品川のなかなかいいマンションの留守番をする話が舞い込む。条件は2匹の猫を世話すること。
 悪くない条件に引きうける渉。しかし新生活を始めて間もなく、猫以外の「同居人」がいる事に気づく。

 それはつまり、部屋に居座る女性の幽霊なのだ。

 

<最初にはっきりさせたほうがいいと思いますけど、わたしは幽霊です。そういうことになるんだと思います。三年前にこのマンションで死んで、そのままここにこうしているから>

 

 突然その存在に気づき動揺する渉だが、やがて彼女の話を聴き興味を覚え始める。彼女は(死んだ時は)20代のOLで小田切千波と名乗った。幽霊といっても声は聞こえるが姿は見えない。雨の日しか現れることはなく、またマンションの居間から動くことはできない。それは恐らく死んだのが雨の日で、その場所だったからだろう。

 しかしそのマンションに彼女が住んでいた訳ではなく、当時知り合いだった男が住んでいて、彼女は留守中に滞在していたという。千波は語る。世間的には死んだ原因は自殺とされているが、そうではないと思う。ただし自分自身自殺の準備をしていたのは確かだ。

 漠然として妙な話だが、やがて渉は千波のために死の真相の調査に乗り出すことにする。それは幽霊が同居している事に迷惑さを感じたからであろうし、その幽霊が若い女性であった事もふられたばかりの渉には関係していたのかも知れない。
 ともあれそんな経緯で、渉にとって奇妙な犯人探しが始まった。

 

 幽霊という超常現象とミステリーというロジックの物語をうまく組み合わせた松尾由美の2005年の小説。幽霊でありながら様々な制約に縛られる千波。事件とは何の関係もないものの被害者のナマの証言という唯一の強みを持ち調査する渉。こんな設定のミステリーは他に見当たらない。

 また、もう1つ面白い設定があって、千波が「納得をする」たびに彼女の体が少しずつ渉にも見えるようになるのである。

 つまり、彼女が何かしらの疑いを持ち、それが渉の調査により真実である/真実ではない事が確認されると彼女は「納得する」。すると彼女の身体が何故か足元から徐々に見えるようになっていくのである。

 実はこの設定が物語の重要な要素になっている。幽霊とはいえ若い女性の身体の一部が同じ家に存在している事の悩ましさ。渉にとっては超常現象とはまた違う意味で頭がおかしくなりそうなシチュエーションである。
 そんな状況から脱するためにも彼女の死にまつわる真相を明らかにしようと奮闘する渉。全てが明らかになって千波にとって思い残しがなくなれば、彼女は全てが見えるようになるだろう。それが悩ましさの解決になるのかはわからないが。

 

 この小説のすごい所は、「若い女性の幽霊でさえ性の対象と見てしまう」男性の心理を正直に描いている所だろう。タイトルにもある通り、一連の事件の調査を通じて渉と千波の間に生まれる恋心もこの小説は描いている。しかし2人は絶対に結ばれることはないし(何しろ片方はもう死んでいる)、手を握ったり抱き合ったりすることも叶わない。でも若い男女が同じ部屋にいればそんな願望を持ってしまうのも当然。そこに何ともやるせない苦悩がある。

 作者は女性だけど、若い独身男の心理をよくわかっているらしい。普通はそこらへんの描写はなるべく省いて「キレイな」ラブストーリーに仕立てようとしそうなものだが、作者はそうはしない。逃げずにそこを正面から描いたところが逆に切なさを浮き彫りにしている。

 

<女の子はいつだってそうだ。年端もゆかない子供でもないかぎり、確実にこちらの下心を見抜く>(p273)

 

 終盤には事件の意外な真相も用意されており、ミステリーとしての完成度も高い。そしてすべてが明らかになった日、セックスをすることのできない2人は最後の夜をすごす。これだけ生々しく性を描いていながらも、いやだからかラストの数ページには並みの恋愛小説には太刀打ちできない美しさがある。

 

 雨の日にだけ語られる大人のラブストーリー。雨は気分を憂鬱にさせるが、その非日常的な空気が何か特別な雰囲気を纏っている。雨の日にしか見れない景色もある。だから雨の日が結構好きだという人もいたりする。
 そんな事を考えながら空を見上げていれば、これから梅雨を迎えても新鮮な気分で過ごせそうな気がする。

 

 2005年新潮社から単行本刊行。2007年新潮文庫より文庫化。