ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]ロッキン・ホース・バレリーナ

 

ロッキン・ホース・バレリーナ (角川文庫)

ロッキン・ホース・バレリーナ (角川文庫)

 

 

<十八歳で夏でバカだった>

 冒頭のこの1行がもう物語のすべてを表しているよね。だけどこの1行が無限にも広がる物語を秘めているのだ。この1行はきっと青春のカンヅメみたいなものだ。開けたら中から閉じ込められていたたくさんの夢が飛び出してくる。

 十八歳で、夏で、バカ。

 僕はバカではあるけど、18歳はとっくに通りすぎてもう三十路だし、そのうえ夏はワクワクする季節ではなく夏バテの中ダラダラと仕事をする季節になってしまった。

 夢など既に忘れてしまったから、僕はこの言葉にどうしようもないノスタルジーと憧憬を感じてしまう。

 大人が忘れてしまった、ドキドキワクワクする二度とない夏。これはそんな物語だ。

 ロックバンド・筋肉少女帯のリーダーであり、また小説家としても活躍する大槻ケンヂによる青春ロック小説。10代のバンドが初めてのライブツアーに挑み、ライブを重ねる中で大切なものを見つけ、成長していく。

 

 18歳の耕助はアマチュアロックバンド「野原」でギターを担当するバンドマンだ。ベースのバン、ドラムのザジと共にそこそこ人気も出てきて女の子を食いまくりの日々。そんな8月、マネージャーの得山と共にメンバーは1台のワゴン車に乗って東京から博多までのツアーへと繰り出す。初のツアーに高鳴る胸。そんな意気揚々のバンドの前に突如出現したのはゴスロリファッションに身を包み、足元にはロッキンホースバレリーナを履いた謎の女・町子だった。

 博多へ憧れのバンドマンに「食われに」行くのだと語る彼女は、耕助たちのワゴン車に強引に同乗して博多までタダ乗りしようとする。最初は反発しあっていた町子とメンバー達だが、旅の中で彼らの間には奇妙な絆が生まれていく。

 なぜ町子は無理矢理耕助たちの車に同乗してきたのか。そして本来の目的とは何か。ストーリーはこの謎めいた女をめぐりながらも、ツアーを通じてメジャーデビューを目指す少年たちの奮闘を描いていてる。

 

 大槻ケンヂが書いているだけあって、バンドに関する描写は非常に生々しくかつ生き生きとしたものだ。恐らくバンドをやっている人の間では「あるある」というような細かいネタがたくさん散りばめられているのだろう。
 ライブのシーンの緊張感や躍動感は読んでいてまるでその場に居合わせるような臨場感。外は夏の熱気。中は人の熱気。そんなノリノリのライブ会場の様子が目に浮かぶようだ。
 もちろんこの人のことだから10代の少年にありがちな性的欲求もストレートに描いていて、いわゆる「バンドやる男の9割は女にモテること目当て」という俗説を真っ向から真実として捉えている。
 といっても実はこの男女関係が物語でも重要な意味を持っていて、バンドに女は不要・害悪、と唱えるマネージャーの得山をよそに耕助と町子の関係は接近していく。そこにはもちろん人間関係や男女関係の危うさがある訳で、中盤で明かされる町子の意外とヘビーな過去は、いかにもメンヘラっぽいこのキャラとはいえ読者の胸に重くのしかかる。

 

<さすがに、バカな耕助でも気が付いたのだ。/そこそこ可愛い顔立ちをしていて、そして何よりもロックバンドをやっている十八歳の少年にとって、セックスは肥沃な南国でもぐ果実よりも、容易に手に入る至高の甘味だということに>

 

 小説の序盤に登場する上記の一文。この時点ではバンドマンの入れ喰いっぷりを茶化す程度の意味合いだけど、読み終えた後で改めて見てみると違う印象を受ける。追っかけの女の子たちとのセックスを通じて耕助は何を求めて、何を手に入れてきたのか。そして何を失ったのか。耕助が探し求めている女性とは誰なのか。

 10代の健康な男の子にとって女は非常に重く大きな存在であり、それを抜きにしてこの物語を語る事はできないのだ。

 

 そしてこの小説で強く描かれていること。それは大人たちの汚さ。バカでスケベだけどピュアで一直線な少年たちと対比される存在として、3人の大人が登場するが、実のところ彼らは特別悪いことをしている訳でもなく、大人の世界では真っ当とされる事をしているだけなのだ。

 それが耕助の視点で語られるので汚い事のように思えるけど、果たして彼らを糾弾できるような大人に俺はなれているかな。否、なれていない。大人の世界と少年たちの世界の間に横たわる大きな溝を大槻ケンヂは軽い文体の中に強く描き出している。

 だからこの小説は青春小説として輝きを放つのだ。ギャグ満載でポップに言葉を紡ぐ作者のセンスは、遠い少年時代の自分に気持だけでも戻れてしまう。

 こんな青臭い小説、他の人が書いても共感できないと思うのだけど、大槻ケンヂが書くと何故か胸に迫るのである。

 

<あんたの履いているすり減ったラバーソールなんかと違って、誇り高い町子のロッキンは、月にも届けと町子を高いところに連れていってくれるの>

 

 なぜ町子はあんな歩きにくそうなロッキンホースバレリーナを好んで履いているのだろうか。

 俺たちはどこにでも行ける、何にでもなれる。だって、

 

<神様が、アンタたちにロックンロールを与えてくれたんだ>

 

 2004年メディアファクトリーから単行本刊行。2007年角川文庫から文庫化。収録されているイラストが少し異なっている。