ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]氷

 

氷

 

 

 この冬は日本各地で大雪のニュースが駆け巡った。海外に目を向けると、アメリカなんかでも全土で寒波に見舞われたらしい。

 僕は生まれてからほぼずっと沖縄に暮らしているから命に関わる程の寒さとはほとんど無縁だ。しかし以前、仕事の関係で3年間東京で暮らしていたことがあり、その時は「霜が降りる」という現象や、冬場の結露などが僕には物珍しくて、こんなに冬の寒さというのは厳しいのか、と実感したものだ。

 夏の暑さも辛いものだが、冬の寒さは文字通り冷酷にしかも瞬時に生命の灯を奪おうとするようで、ひと際恐ろしく感じる。

 

 この本はイギリスの作家アンナ・カヴァンが1967年に発表した“Ice”の邦訳である。日本では1985年に一度サンリオSF文庫で翻訳刊行されている。1987年にレーベル自体の消滅に伴い、評価は高いが手に入り辛い「幻の作品」となっていたのだが、2008年にバジリコから復刊された。訳者あとがきによれば(サンリオ版と同じ人が訳している)、サンリオ版を下訳とし徹底的に手を入れたそうで「ほとんど改訳」なのだそうだ。
 村上春樹によれば翻訳は25年をメドに手を入れた方がいいらしいから、タイミング的には満を持してといった所だろう。SFファンにとっても長い間入手困難だった作品が容易に読めるようになったのだから喜ばしい。かつて高値で古本を買ってしまった人は悔しい気分だと思うが……。

※実はこのバジリコ版も品切れが続いていたのだが、今年3月にはちくま文庫から文庫版が出るらしい。早く、春になる前に!

 

 サンリオSFは今でも時々思い出したように別の出版社から復刊される事がある。こういう「復活劇」も本好きにはたまらないトピックである。今後もサンリオSFに限らず、絶版になった名作がどんどん復刊されてくれればいいんだが。コストの問題とかいろいろあると思うけど、電子書籍の可能性とかそこらへんにあるのでは、と個人的には思っている。

 

 世界は寒波に襲われていた。異常気象のなか、国家は目的の不明瞭な戦争を続け、人々は絶望の中に生きていた。氷が迫ってくる。絶対の氷が世界を閉じ込めようとしている。戦争に投入された何らかの兵器が異常気象をもたらしたのか?それともこの異常な寒波が戦争を引き起こしたのだろうか? 

 「絶対の終末」(本書帯より)に向かいつつある世界で、男は銀色の髪を持つ少女を追い続ける。なぜ男は異様とも思える執着をもってその少女を追うのか?そして男の前に立ちふさがる「長官」と呼ばれる支配者の正体とは?
 あまりに美しい世界の終りが壮麗な筆致を持って描き出される。

 

 森下一仁の『現代SF最前線』(双葉社)によれば、アンナ・カヴァンは「作品に興味を覚えた者は誰でも作者自身のことを知りたくなるに違いない」作家だそうで、これは僕もまったく同じ感想を抱いた。
 とにかくその圧倒的な迫力に驚かされる。あまりにも壮大で美しい氷を背景にストーリーが進行していくが、物語の合間合間には改行もなく主人公が知りえるはずのない光景が描写されたりする。それは遠くで起きている事を彼が透視しているのか、それとも単に妄想を幻視しているのか、はっきりしない。
 だから、読者は唐突な展開に翻弄される事になる。作者はそんな読者を置き去りにしたまま、鬼気迫るタッチで世界を破滅させていく。

 単純明快な娯楽小説とは一線を画しているし、展開は一筋縄ではいかないのであまり読み易くはないのだが、痛い程の冷たさが伝わってくる圧巻の作品世界は、あたかも冷凍庫から取り出したばかりの氷に指が接着して離れないがごとく、我々の興味を離さないのである。

 

 この異様な筆致の小説を完成させたのが女性作家だというから驚く。
 『氷』は、作者アンナ・カヴァンが死亡する前年に発表された最後の作品である。1968年冬、彼女が自宅にて遺体で発見された時、手にはヘロインが入ったままの注射器があったという。享年は67歳。彼女は40年以上にわたるヘロインの常用者だったのだ。この死が自殺だったのかどうかはわからない。

 ヘロインを常用しなければ生きられなかった世界を、彼女はどのように見ていたのだろう。死と絶望の存在が重くのしかかる本書の物語は、その疑問に少しでも答えを与えるだろうか。

 巻末に収録されている、ブライアン・オールディスによる1970年版イントロダクションも必読。

 

 氷に閉じ込められつつある世界。カフカにも比されるその作風は、混沌とした現代にこそまさに再評価されるべきだろう。2013年頃からこの作者の別の作品も色々復刊されているのは、混沌とした今の時代に改めて注目されている証しかも知れない。

 氷は全ての生命を凍てつかせる。そして無慈悲な絶望に閉じ込められるまで、凍結は静かに我々を追い詰めていく。それは本当に物語の中だけの話なのだろうか?