ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]トリフィド時代 食人植物の恐怖

 

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)

トリフィド時代―食人植物の恐怖 (創元SF文庫)

 

 

 これは世界が破滅する物語だ。物語の発端は5月7日である。そう、この本を読んで明日を迎えるのもなかなかオツなものかも知れない。

 

<それは、へんてこなものにたいする手頃の符牒として、どこかの新聞の編集室で案出された、覚えやすい、気がきいた名前だった-だが、やがては、苦悩、恐怖、悲惨と結びつく運命を持っていた-その名は、Triffid トリフィド……>(p60)

 

 中学の時、美術の先生が「僕は死ぬのは怖くないが、失明して生きるのはとても怖い」というような事を言っていた。
 美術作品を数多く目に焼き付けてきた人だからこその言葉かも知れないが、それを聞いた僕も光を失うという事に凄く恐怖を感じたものだ。

 俗に「目は脳の一部が外部に露出したもの」と言われるほど重要な器官であり、人間は情報の実に8~9割を視覚から得ているという。

 

 そんな訳でSF小説の古典的名作である本書。イギリスの作家ジョン・ウィンダムが1951年に発表した“The Day of the Triffids”の邦訳である。
 その日、世界中で一晩中続く緑色の流星雨が観測された。誰もが空を見上げていた。「空全体がわれわれのまわりを回転している」と錯覚されるほど壮大な星の雨は、しかし恐ろしい力を持っていた。翌日、流星雨を目撃した人は皆失明していたのだ。
 世界のほとんどの人が失明した中、人類の命運は僅かに残った視力のある人々に託される。しかし混乱の最中、強い殺傷能力を持ち、自立歩行ができる3本足の巨大植物トリフィドが人類を襲い始める。

 

 読んでみると、パニックSFにしては意外なほど物語は整然としている。暴動っぽいものも起こるのだが、何しろみんな目が見えないのでやぶからぼうに大暴れ、という訳にもいかない。周囲の状況を知るには静かにしている事が重要な訳で、結構シーンとしている場面も多い。

 偶然目の治療で入院中だったため失明を逃れた主人公ビルは、慎重に状況を把握しながら途中で出会った女性作家ジョゼラと共にサバイバルしていくのだが、イギリスだからアメリカ映画みたいに銃を簡単に手に入れられる訳でもない。

 中盤までは視力のある人が失明者をいかに導いていくかという試行錯誤の繰り返しである。ビルはトリフィドの専門家だったため、周囲の人に「トリフィド放っといたらヤバいって!」と訴えるが、とにかく生きるのに必死な人々はその言葉に耳を貸さない。トリフィドはゆっくりと人類を包囲していく。

 

 盲目の人々の中では視力のある者が絶対的に優位だ。この状況で描かれる人々の様は英国らしく皮肉に満ちており優れた文明批評でもある。国家が機能を失った状況下では大小のコミュニティが発生、それぞれのやり方で統治し、やがて失敗し消滅していく。人間の虚しさを感じさせる。

 

 そしてやがて始まるトリフィドの襲撃。

 トリフィドは元々植物油採取のために栽培されていたのだが、それがゆらゆらと人間と同じくらいの速度で歩き栽培場を脱出。上部についた鞭のような部分(蔓?)には毒があり、それで人間を一撃、一瞬で殺すのだ。

 うりゃーと全力で襲ってくる動物的な怪物ではないのが逆に不気味である。所詮植物なのだから、普通であれば人間にとってさほど脅威ではないが、失明者にとっては音もなく忍び寄る超危険な存在である。

 鞭で殺した後、死んだ獲物のそばにじっと居座ってそれが腐ってきたら養分として取り込んでいくってのも、植物的には効率的な栄養摂取法とはいえ凶悪である。

 植物系のモンスターといえば僕なんかは映画『ゴジラVSビオランテ』に登場したビオランテを真っ先に思い出すけど、あれは植物のくせに突進してくるから怖かった。トリフィドはそうではないのが逆にリアルで怖い。

 

 本書は何度か映像化されているが、実は一回目の映画化『人類SOS!』(1962年)で描写されたトリフィドが大群でゆらゆらと人間を取り囲むシーンが、ジョージ・A・ロメロの映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』のゾンビ描写に影響を与えているそうだ。タイトルも本書の原題と類似しているね。「怪物がうろつく世界でも結局のところ人間が一番怖い」というロメロの姿勢も原作と共通している。

 

 トリフィドの造形は映像化のたびに変わっているので、比較してみると面白いかも。前述の『人類SOS!』では動物っぽい怪物になっていたが、1981年にイギリスでテレビドラマ化された『デイ・オブ・ザ・トリフィド』ではなんかちょっとデカい熱帯植物(「グズマニア」とか?)って感じになってて迫力不足。でもストーリーは原作に比較的忠実である。約30分ドラマの6話シリーズなので長さと地味さの割にサクサク観れる。

 2009年に再びイギリスでドラマ化された『ラストデイズ・オブ・ザ・ワールド』は前後編に分かれており、それぞれ「EPISODE1:トリフィドの日」「EPISODE2:人類SOS」のサブタイトルがついているのが日本版製作者のせめてものSFファンへの良心なのかも。トリフィドはなんか童話に出てくる木のおばけが凶暴になった感じ。静寂に満ちた原作を無理矢理派手にした感じで、ストーリーも大きく変更されている。派手な映画好きにはオススメだけど、悪役の小悪党っぷりなど物足りないかも。

 参考までに、日本のバンド筋肉少女帯は2007年のアルバム『新人』に収録した「トリフィドの日が来ても二人だけは生き抜く」で、本書及びSF小説への愛を曲にしている事を追記しておく。さすが大槻ケンヂ

 

 この本、名作だけあって複数の邦訳が出版されているが、創元SF文庫版が一番入手しやすい(早川書房はなんでこれをハヤカワSFシリーズで出しておきながら文庫化しなかったんだろう)。ただ訳文がちょい古いのは気にはなる。「デカダンになる」(p121)とか「どこの誰兵衛」(p130)とか。初版が1963年だもんなあ。「一日」を「いちんち」と表記するのは古さなのか訳者個人のセンスなのかよくわからないけど。光文社の古典新訳文庫あたりで新たに出してくれないかな。

 ちなみに2001年にはサイモン・クラークなる作家により遺族公認の正式な続編“The Night of the Triffids”が書かれているそうなのだが、こちらは未訳。恐いもの見たさで読んでみたい気もする。

 

 当たり前だが小説は目が見えなくては読めない。この小説を読んでいるという事は視力があるという事だ。そして視力がある人だからこそ感じる静寂に満ちた恐怖をこの小説は体験させてくれる。