ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]夜中に犬に起こった奇妙な事件

 

夜中に犬に起こった奇妙な事件

夜中に犬に起こった奇妙な事件

 

 

 15歳のクリストファーは、夜中に近所の飼い犬ウエリントンが殺されているのを発見する。彼はこの事件の謎を解き明かすことに決め、その過程を小説として記し始める。殺人ミステリ小説である(殺されたのは犬だけど)。調査を進めるうちに明らかになる意外な真実。それはクリストファー自身の生き方を大きく変えるものだった。
 本書はそうして書きあげられた事件の顛末である。人とうまくコミュニケーションをとることのできないクリストファーは様々な出来事に戸惑いながらも、苦難を乗り越えて少しずつ成長していく。

 

 『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(The Curious Incident of the Dog in the Night-Time)というぎこちなくて妙なタイトル。手に取り読み始めた読者はその内容に再度面食らうだろう。なんとも不思議な雰囲気に満ちた小説である。
 主人公のクリストファーは人と違っている。人の表情を読み取る能力が備わっていないので、相手が怒っているのか悲しんでいるのかがわからない。だから他人との関係を構築するのが苦手である。
 一方、数学や科学に優れた成績を発揮しており、驚異的な記憶力も備えている。
 そんな風に、いわゆる「普通の人」とはどことなく違う彼が記述するこの小説も相当変わっていて、章はいきなり2章から始まり3、5、7、11章……と続いていく。数学に詳しい人ならピンときただろう。これは素数なのだ。
 そんな独特な手法で記述されたこの小説に読者は戸惑うしかないが、やがて主人公が通う学校の描写や親との会話からおぼろげに察するだろう。
 そう、主人公のクリストファーは高機能自閉症、あるいはアスペルガー症候群といったものの特性を備えているのだ。

 しかし作中には「自閉症」等の単語はでてこない。まあ彼自身が記述者なのだから当り前だが、彼はあたりまえに彼の見た世界を記していくだけだ。

 だから読者は面食らう。僕自身も前述のような明瞭な説明を得てストンと理解できたのは訳者によるあとがきで丁寧な解説を読んだからだ。

 

 なんの予備知識もなく読み始めた読者は、空気を読まずにこまっしゃくれていて、ヘンに頭が良くて小生意気なガキの語りにカチンと来るものがあるかも知れない。なんだこいつと反感さえ感じるかも知れない。
 だがこの世界こそがクリストファーにとって唯一の世界なのだ。
 この部分こそ真の作者マーク・ハッドンの狙いなのではないだろうか。ハッドンが自閉症者と一緒に働いた経験をもとに書かれたというこの小説、あえて「普通の人」の視点で語るのではなく、クリストファー自身を語り手に据えることで彼らの世界を彼らの言葉で語らせる。
 だから読者の驚きは、もしかしたらハッドンが初めて自閉症者と働いた時に感じた驚きと同種のものなのかも知れない。彼らの考え方を受け止めて、どう感じるかは人それぞれだろう。

 

 この本を読んだ時、ちょっと毛色は違うが、知的障害者が語り手である『アルジャーノンに花束を』(ダニエル・キイス)や、自閉症者が語り手である『くらやみの速さはどれくらい』(エリザベス・ムーン)といった小説を思い出した。作家の梶尾真治氏はこの両作品について、知的障害者自閉症者たちはこのように世界を見ているのか、という部分を繊細に描きだしている点をとても評価していた。『夜中に犬に起こった~』も同様の体験をさせてくれる。そしてこれらの作品はすべて同じ人(小尾芙佐)が訳している。この人の仕事は本当に凄いものだと思う。

 

素数とは人生のようなものだと思う。それはとても論理的なものだが、たとえ一生かけて考えてもその法則を見つけることはできない>(p26)

 

 クリストファーは真実を見つけるため、自らを守るため、大切な自分の世界から抜け出すことを決意する。それは彼にとって決死の大冒険であり、大きな成長の一歩だった。彼にとってこの世界はヘンテコなことばかりだ。複雑怪奇な人とのふれあいを通じ、最後に彼が見つけたものとは何か。
 語り口さえ危なっかしく、その行動は輪をかけてハラハラさせられる。でもそんな「心を閉ざした天才児の冒険」(本書帯)に私たちは驚くべき感動を覚える。

 

<いろいろなものごとが謎です。しかしだからといってその謎に答えがないわけではない。それは科学者たちがその答えをまだ発見していないというだけです>(p175)

 

 本書はイギリスで2003年に発表された。少年の驚異の世界を鮮烈に描いたこの作品はベストセラーとなり、ウィットブレッド賞(現・コスタ賞)ほか数々の賞を受賞した。

 日本では早川書房の児童向け叢書「ハリネズミの本箱」で2003年に刊行され、2007年に同社から新装版が刊行された。2014年には森田剛主演で舞台化されたらしい。

 毎年4月2日~8日は発達障害啓発週間である。これからもこういう作品が長く読み継がれて欲しい。