ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]凍える森

 

凍える森 (集英社文庫)

凍える森 (集英社文庫)

 

 

 不謹慎を承知の上で書くが、迷宮入り事件というのは人の好奇心を強く刺激する。その経緯にミステリアスな要素があったりすると好奇心はますます強くなる。

 事件発生当初はその記憶の生々しさや生存している関係者とのしがらみなどで事件の話題は一種の禁忌扱いされるものだが、時間が経過するにつれて人々はやがて興味本位で詮索するようになる。ある種「歴史上のできごと」になってしまうからだろう。

 だから少し考えただけでも多くの迷宮入り事件が思い浮かぶのではないか。近年でも奇怪で不気味で、犯人のつかまっていない事件はいくつも起こっている。さかのぼっていけば、恐らく史上最も有名な迷宮入り事件である「切り裂きジャック事件」や、国内でも国鉄史上に残る重大な「下山事件」等、歴史の闇に埋もれてしまった事件が数多く謎を残している。

 迷宮入りになった事件は我々の想像力を刺激的に掻き立て、多くの文学や映像作品に影響を与えてきた。今パッと思いつくだけでも米国の「ゾディアック事件」を扱ったハリウッド映画『ゾディアック』や、韓国の「華城連続殺人事件」を題材とした映画『殺人の追憶』等多くの作品が生み出されている。

 日本では2010年4月に殺人罪等の公訴時効が廃止されたため、迷宮入り事件というものの取り扱い方は今後変化していくのかもしれない。

 

 前置きが長くなったが、本書はドイツ史上最大のミステリーとされる迷宮入り事件「ヒンターカイフェック事件」を描き、本国でベストセラーとなった小説である。2007年ドイツミステリー大賞国内スリラー部門、フリードリヒ・グラウザー賞新人賞、マルティン・ベック賞(スウェーデン)の受賞作。

 「ヒンターカイフェック事件」は、1922年3月31日から4月1日にかけて南バイエルンの片田舎ヒンターカイフェックの農家で起こった猟奇的かつ残忍な事件で、一晩のうちに農場に暮らす6名がつるはしによって殺害された。さらにこの事件に異常性をもたらしていたのは、殺人犯が犯行後も数日間にわたって現場に居残っていたと思われることである。家畜には餌がやられ、生活の痕跡が残されていた。

 事件が発覚したのは4月4日、農家の姿が見えない事を不審に思った村の人たちが遺体を発見したのである。なぜ4日も事件が発覚しなかったのか。それは殺された農家が人里離れたところに住んでいたことと、変わり者だったため村の人々たちから敬遠されていたことも恐らく無関係ではない。

 以上のように、極めて奇妙で異常な殺人事件だが、現在に至るまで解決はされていない。1986年まで警察によって事情聴取が行われていたというから、警察も懸命に捜査をしていたのだろう。

 

 そんな謎に挑んだ作家がそれまで小説を書いたことなどないごく普通の専業主婦だったというのだから驚く。アンドレア・M・シェンケルは2006年、本書(原題“Tannöd”)でデビューするやドイツの出版界を席巻し、批評家から絶賛されたそうだ。

 シェンケルが評価されたのはその臨場感あふれる筆致であろう。迷宮入りのミステリアスな事件を扱っているのにも関わらず本書には探偵役や刑事は登場しない。殺害された農家をはじめとして、その周囲の人間や村の人たちの証言を一人称で描写しながら事件は進行していく。舞台は1950年代に変更され登場人物の名前も実際とは変えられてはいるが、その空気感はリアルだ。というか第二次世界大戦後を舞台にしたのはドイツの人にとってあの時代は特別な空気があったからではないだろうか。

 様々な角度から様々な視点で事件を浮き彫りにしていく様はまるで芥川龍之介の『藪の中』のよう。読者はまるで自分が当事者になったかのような、事件に立ち会っているかのような感覚になる。

 そして驚くことにそんな手法を使いつつ、この本で作者は丁寧に出来事を積み重ね、ある人物を犯人として物語の最後で提示している。

 

 人々の証言で明らかになる凄惨な事件の概要。陰鬱な農村の人間関係。闇に包まれた怨恨と陰惨な因習の息詰まるような悲劇。

 凍える森の中であの夜何があったのか。

 内容の重さの割に物語は短く、文章も読みやすいので読み終えるのにあまり時間はかからないと思う。しかしこの本が読み手の脳裏に残す印象は強烈だ。
 そういえばこの本、本国ドイツでは2009年に本書と同じ“Tannöd”のタイトルで映画化されているらしい。監督はベティナ・オベルリという人。ざっと調べてみたのだけど日本では公開もソフト化もされてないっぽい。動画サイトで予告編とかは見れるから雰囲気は味わえる。

 

 ところでどうだろう。ここまで読んでこの事件の内容に何となく興味が出てきたのではないだろうか。決して明るみに出す事はないが、人の心理には迷宮入りになった謎や猟奇的な事件への興味が隠されていると思う。暗い好奇心が事件への興味をかきたてる。殺人犯になるかどうかはその興味本位を実行に移すか移さないかの違いだけなのかも知れない……とか思ってしまうのだが、どうなのだろう。

 なぜ世の中ではこんなにも多くの迷宮入り事件が起きているのだろうか。