[読書]忘れないと誓ったぼくがいた
個人的なことでナンだが、僕は記憶力がすごく弱い。特に人の顔や名前は全然覚えられない。仕事で初対面の人に会った時なんか、その場で何度も名刺と顔を見比べるくせに一日たつともうどんな人だったか思い出せない。
こんな場合、思うのだ。この人ともう二度と会わないとしたら、僕の人生においてこの人はいなかったのと同じ事なのではないかと。
『ラス・マンチャス通信』で日本ファンタジーノベル大賞を受賞した平山瑞穂の受賞第一作。
主人公の手元にある一本のDVCテープ。そこに記録されているのは断片的なある少女の映像。この映像は彼にとってかけがえのない思い出のはずなのだが、彼はそれを憶えてはいないのだ。どうしても記憶として思い出すことができないのだ。
高校三年の夏休み、葉山タカシはあるきっかけから不思議な少女・織部あずさと出会う。
やがて彼女に魅かれていくタカシだが、彼女は半年ほど前からある奇妙な現象に見舞われていた。「君はホントに存在したの……?」
彼女の身におきた現象とは、世界中が彼女を「忘れてしまう」という不可解な現象だった。
彼女は時々いなくなってしまう。いなくなっている間、彼女の意識はない。その原因もわからない。その上さらに不可解なのは彼女がいないのにも関わらず誰もそのことを不思議には思わない。その間、彼女の存在自体が認識されなくなっているらしい。クラスメートも、馴染みの店の店員も、みんな彼女がいたことを「忘れてしまう」のだ。事実、タカシ自身もこの現象を目の当たりにしていた。二人であんなに楽しく過ごしたのに、翌日、自分が誰と何をしたのかうまく思い出せない、という事があったのだ。
しかもこの現象は進行している。彼女の身にそれが起きる時間が長くなっているのだ。やがて彼女は誰の記憶にも残らないまま「フェードアウト」、つまり消え去ってしまうという。
そんなのは、すごくいやだ。タカシは決心する。僕は君を忘れない。世界中が君を忘れ去ってしまっても―。
ちょっと不思議な設定の恋愛小説である。高校生のタカシはやがてなりふり構わずあずさを襲う運命に立ち向かおうとするが、原因すらもわからないまま自分も彼女の記憶を失いゆくのだった。
しかし読んでいると、現実にこういう現象に見舞われてこの世界から消え去った人がもしかしたらいるんじゃないかという気がしてくる。
考えてみれば、僕も今までたくさんの人と出会ってきて、その中にはどんな人だったかさえよく思い出せない人もいて。例えば小学校の卒業アルバムなんかを開いてみると、完全に存在を忘れていたけどこんな人いたなーって写真を見てようやく思い出す人がいたりして、じゃあこの人ってこの写真がなければ僕の人生においてまったく存在しない事になるんじゃないかと思ったりする。
それが僕だけじゃなく世界中の人から忘れ去られてしまったらどうだろう。
認識されないという事は存在しないことと同じなのである。いてもいなくても同じだというなら、それはいないという事なのだ。
僕はそれを考えた時心底恐ろしくなった。それは死ぬとかそういう事よりも断然恐ろしいことではないか。
僕だって誰かからすれば記憶にすら残らない人物であるはずだ。そのまま誰からも思い出されずフェードアウトしてしまうとすれば……。
この小説には喪失感が満ちている。氷が溶けてやがて蒸発していくように、大切なものが跡形もなく失われてしまう喪失。それはあまりに空疎で残酷だ。
あずさが見舞われた現象についての説明はほとんどない。そういう論理的な説明を一切省いたおかげで小説としてずいぶんスリムになっているが、ちょっと物足りない気もする。一応この現象について、<「時空の裂け目」みたいなものに吸い込まれてしまう>と作中で表現してはいるが。
抗いようのない運命に立ち向かうタカシと、消えてしまう運命に覚悟を決め着々とそのための準備をするあずさ。その姿はあまりに悲しく痛々しい。ラストはあまりに切なく美しい。この小説は人知を超えた現象に抵抗するSFでありファンタジーであり、切なく胸を打つ恋愛小説であり、もがき苦しむ青春小説でもある。
2006年に新潮社から刊行され、08年に新潮文庫で文庫化された。文庫版はカバーにイラストが使われているが、単行本では顔が映っていない少女の写真が使われていた。こちらも作品内容を表していて印象的だった。
今年映画化され、3月に全国公開されるそうだ。映画関係者がすぐに食指を動かしそうな小説だと思っていたが、意外と映画化まで時間がかかっている。やはり「記憶から消えていく」という設定が映像的に表現しにくいからだろうか。だとしたらどのように映像化されているのか興味をそそられるところではある。
僕はきっと、視力を測る「ランドルト環」を見るたびに心に刻むだろう。自分の大切な人やものを、図らずも忘れてしまうような辛い思いはしたくない。主人公と同じように、僕もそう思うのだ。