ペイル・グリーン・ドット/読書日記

本の紹介とか、読んだ感想とか書いてます。国内外のSF小説が多いです。PCで見る場合は、画面左上の「ペイル・グリーン・ドット」をクリックして、「記事一覧」を選択すると、どんな本が取り上げられているか見やすいと思います。

 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]夏幾度も巡り来て後に

 

夏幾度も巡り来て後に AFTER MANY A SUMMER

夏幾度も巡り来て後に AFTER MANY A SUMMER

 

 

 イギリスの作家ハックスレーは、1932年に発表した代表作『すばらしい新世界』(Brave New World)で未来のディストピアを描き文学史にその名を残している。他にも多くの作品を残しているが、現在、日本においてはその『新世界』以外の邦訳を新刊で手に入れるのがなかなか難しい状況なのは残念ではある。
 そんな中で本書は2012年の10月刊行の、比較的最近訳出された長編小説である。1939年、彼が45歳の頃に発表されたものだ。その筆致はさらに円熟味を増し、縦横無尽に思想の世界を飛び回っている。

 

 アメリカの大富豪ストイトから仕事の依頼を受けたイギリス人ジェレミーは、勝手の違いに戸惑いながらもロサンゼルスに降り立った。彼が依頼された仕事は、ストイトが所有する古い写本「ホーバーク文書」を調査し目録を作ること。この仕事自体はとても面白そうだったが、ストイトの屋敷に集まる面々は一癖も二癖もあり、彼はそこで交わされる様々な議論に巻き込まれていくのだった。
 長寿に醜怪なまでの執着を見せるストイト。彼の主治医オゥビスポゥ。その助手ピート。若く魅力的な女性ヴァージニア。ターザナ大学学長マルジ。ストイトの幼馴染で学者のプロプター。
 豪邸で日々交わされる議論は滑稽なまでに深遠だ。善と悪、時間と渇望、奴隷状態と狂信、民主的諸制度と懐疑的精神。延々と終わりの無い議論を続けていく中で一同は広大な哲学の海に沈んでいく。
 ヨーロッパにおいて著名な科学者や文人を多数輩出、ノーベル賞受賞者もその一族に持つ名門ハックスレー家出身の作者が、その知識と思想を惜しむこと無く披露。長編小説にして思想書のような不思議な本である。本書巻末の略伝に依れば、1920年代にはハックスレーの名を口にすることが知的さの代名詞のようになっていたそうだから、この読みごたえにも納得である。

 

 とはいえ、物語のバランスを著しく壊すほどに詰め込まれた議論の場面はいかんせん難解すぎて僕の頭は追いつかない。第1部第9章あたりから議論は白熱していくが、その内容は僕なんかには一読しただけでは理解できないものだ。なにしろ、

<この言葉について現実に即して考えたいのだったら、私たちは“愛している”と言う一方で、“神は、X‐愛なり”と言うべきなのです。このようにすれば、無窮なる段階の直接経験を全くしたことのない人にも、無窮なる段階で起こることは、全く人間としてある段階で起こることと同じではないのだということを知的に知り得る機会が、少なくとも与えられることにはなるでしょう。その経験なるものを活字の形で目にしているが故に、“愛”と“X‐愛”には、ある種の違いがあることを知ることでしょう>(本書p178)

 てな具合なんである。読んでて頭痛くなってくるでしょ。僕は読みながら「何言ってるのか皆目わからん!」という状態になった。文字を目で追っていても内容は頭に入ってこなかったのだ。

 

 そんな訳だが、これら議論の中心に位置するのはプロプターである。彼の言説は説得力を持っているようで相手を煙に巻いているようでもある。
 作中で兼好法師の「徒然草」にも言及するなどその博覧強記ぶりに作者の知識欲が反映されているが、恐らくこれを丁寧に読み解こうとしたら10回くらい繰り返し読まないといけないし、この物語を細かく分析していったら研究書が数冊書けるのではなかろうか。
 そう考えると迷宮のように入り組んだ議論は単に作者が書きたい事を書き飛ばした自己満足のように思える。しかし終盤、物語は唐突に大きく動き、取り返しのつかない悲劇が巻き起こってしまう。そして異様で奇怪なクライマックスへ―。ここへ来てこれまでの議論がこの物語のテーマと密接に関わっていた(らしい)事が明らかになり驚愕する。またそれまでオマケのように描写されていたジェレミーの古文書研究も予想外の方向からラストへ関わってくるものだから、思想家にして小説家である作者の企みに我々は閉口するしかない。

 

 訳者は静岡県の高校で英語教員をしていた人で、定年後に翻訳者として活動を始めたらしい。実のところ小説を翻訳する文学的手腕はあまり巧くはない。正直、この小説の読みにくさの要因の3分の1くらいは訳文のせいではないかと思う。「あの尼っちょ!」(本書p289)なんて台詞、今日日なかなか見ないよなあ。また鉤括弧の中の文章の最後に句点を打つのも、最近の日本の小説では一般的ではないように思う。
 まあそれでもある種の格調高さを感じる文章ではある。「何回もの夏を経て」といった意味の原題“After Many A Summer”を「夏幾度も巡り来て後に」としたセンスは、訳者のものかどうか分からないけど素晴らしいと思います。
 表紙も作品の雰囲気にぴったりで、自分の本棚に置いておきたくなる魅力がある。