ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]虐殺器官

 

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

 殺伐とした荒野に累々と横たわる多くの死体。そのほとんどは民間人のようで、中には女性や子供も混じっているようだ。足元にそんな光景をみながら佇む1人の若い兵士。その目は虚空を見つめている。そしてこの本のタイトル……虐殺器官……Genocidal Organ……。

 2007年、この小説が早川書房の日本SF叢書「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」から刊行された際はそんな物騒な表紙イラストが添えられていて一瞬手に取るのを躊躇ってしまったが、この小説こそが作者のデビュー長編であり、日本SF史上に名を残す記念碑的作品である。

 

 『虐殺器官』は元々2006年の第7回小松左京賞に応募された(そして最終候補に残りながらも落選した)作品を大幅に加筆訂正したものである。
 作者にとってはこれが商業デビュー作であったわけだが、この作品が日本SF界に与えた衝撃は計り知れない。まさにゼロ年代の日本SFを代表する、いや世界の中に位置づけて語られるべき作品だ。

 9.11以降、先進国では徹底的な管理体制で社会からテロを一掃していたが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が逆に凄まじい勢いで激しさを増していた。アメリカ情報軍・特殊検索群i分遣隊のクラヴィス・シェパード大尉は、虐殺の背後に存在すると囁かれる謎の米国人ジョン・ポールの影を世界中に追うのだが……。

 スタイルとしては軍事SFに分類されるのだろうが、その内容は実に濃密だ。世界中に混乱を撒き散らしていくジョン・ポールなる人物の目的は何か。そして大量虐殺を引き起こす「虐殺の器官」とは何なのか。同時多発テロ以降の世界を覆う空気を描きながら、人類の愚行を突き付けてみせる。
 主人公が所属するのは陸軍(アーミー)・空軍(エアフォース)・海軍(ネイビー)・海兵隊(マリーンズ)に続く第5の軍、情報軍(インフォメーションズ)。その中でも特殊検索群i分遣隊は暗殺を請け負う唯一の部隊だ。主人公によれば「かつてのCIAが担っていた諜報能力のいくぶんかを引き継いだ軍事集団。スパイと兵士のハイブリッド」なのだという。
 主人公の語りで物語は進行していくが、彼の一人称は「ぼく」。彼は作戦行動のために感情を鈍化させており、死体が頻出する凄惨な物語の内容とは対照的に、その口調は非常にドライでナイーブで繊細である。
 そこが「なんだかウジウジした青年がブツクサとつぶやきながら戦争をしている」ように見えてしまい、一部からは不評のようだが、これも作者が狙った効果なのだからまあしょうがない。
 作者はインタビューにおいて、<『一人称で戦争を描く、主人公は成熟していない、成熟が不可能なテクノロジーがあるからである』というのは最初から決めていました。ある種のテクノロジーによって、戦場という、それこそ身も蓋もない圧倒的な現実のさなかに在ってもなお成熟することが封じられ、それをナイーブな一人称で描く、というコンセプトです>と語っている。

 

 また物語を語る上で社会が抱える様々な問題を、多彩な切り口からあぶり出し、かつ近未来の科学技術を駆使した魅惑的なガジェット(人工筋肉や副現実=オルタナなど)を物語に有機的に絡ませてSFとしての魅力も失っていない。
 つまり、ものすごく大雑把に言うと、『虐殺器官』は作者の膨大な知識を投入しながら、「アメリカと暴力」の問題をSFというスタイルで、未成熟な青年の目を通して切実に描いた作品なのだ。

 スターバックスの永遠とドミノ・ピザの普遍性を信じ続けるアメリカの現実を。

 

 だからこそこの小説はわが国だけでなく世界で読まれて欲しい。というか外国ではどのように読まれるのかその受け止められ方を知りたい。

※ちなみに本作は2010年には韓国で、2012年にはアメリカで翻訳刊行されている。

 

 この小説の刊行から1年9ヶ月後、作者の伊藤計劃は34歳の若さで癌により死去した。生前に残した長編作品は本書を含めわずか3作のみ。しかしこれらの作品がSF界に、いやエンターテイメント小説界全体に与えた影響は計り知れない。

 正直、作者が亡くなってしまったことで過剰に湿っぽい論評が多数発表され、そのせいでやや過大に伝説的な扱いをされている気も個人的にはするのだが、しかしそれを差し引いてもこの作品は間違いなく面白い。

 

 2010年にハヤカワ文庫JAから文庫化。2014年には同文庫から新版が刊行されている。今年10月にはアニメ版劇場映画も公開されるそうだ。

 もし伊藤計劃がまだ生きていれば、集団的自衛権を容認しようとしている2015年の日本をどう見たのだろう。もちろんそんな仮定は無意味であり悲しいだけだ。しかし我々は想像せざるを得ない。「いま」を伊藤計劃とともに生きていたら、彼は何を語ったのだろう、と。

 第1回PLAYBOYミステリー大賞受賞、「ベストSF2007」国内篇第1位、「ゼロ年代SFベスト」国内篇第1位。