ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]朽ちていった命 被曝治療83日間の記録

 

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

朽ちていった命―被曝治療83日間の記録 (新潮文庫)

 

 

 2011年3月11日。この国に暮らす者にとって忘れられない日だろう。巨大地震とそれに伴う津波は甚大な被害を人々にもたらした。

 そして福島第一原発事故。これは恐るべき世界規模の事故であり、全日本国民にとって他人事ではない。未だ刻々と状況は変わっている。

 しかし事故から4年を経て、すっかり報道が減っている気がする。報道が少ないという事は人々の関心が薄れているという事だ。

 まだ終わっていない。福島だけの問題ではない。忘れるには早すぎる。

 

 1999年9月30日、茨城県東海村。この日、核燃料加工施設・JCO東海事業所でウラン燃料の加工作業に従事していた従業員は、ステンレス製バケツに入ったウラン溶液を大型の容器に移し替える作業中、パシッという音と共に青い光を見た。臨界に達した瞬間に放たれるチェレンコフ光である。
 そのとき、彼の体を放射線の中でも最もエネルギーの大きい中性子線が突き抜けた。施設内に放射線が出たことを知らせるサイレンが鳴り響く。
 いわゆる東海村JCO臨界事故である。彼を含む2名の死者と667名の被曝者を出した最悪の原子力事故であった。

 その後、彼は東大病院に入院し被曝治療を受けることになる。被曝量は20シーベルト。これだけ大量の放射線を浴びた場合の死亡率は100パーセント。専門家たちもかつて直面したことのない事態の中、懸命の治療が始まった。
 この本は医師らが立ち向かった83日間に及ぶ壮絶な医療を取材し、NHKで2001年に放送された特集番組の書籍化である。

 

 正直、僕はこの本を読むまで放射線障害について具体的には知らなかった。しかしその症状の凄まじさは想像を絶するものだった。
 中性子線を大量に浴びた体内では染色体が破壊されていた。染色体は体の設計図だ。設計図を失った体は再生する事をやめ、内部から朽ちるように次第に変わり果てていく。はがれた皮膚はいつまでも再生せずにむき出しのまま酷いやけどのように赤黒く変色していく。
 内臓も組織がはがれおち、栄養分を吸収しない。大量の下痢がはじまり、体の表面からも水分が染み出していった。白血球が減少し、抵抗力が失われていく。
 本書に収録されている、バラバラに壊れた染色体の写真に戦慄する。

 

 様々な専門家が右往左往する中、中心となってこの医療を指揮したのが東京大学医学部の前川和彦教授である。これはこの年配の教授にとっても、まったく未知の闘いだった。
 どんなに手を尽くしても効果があるのかがわからない。憔悴していく現場。家族への説明責任とケア。なぜこんな事が起きてしまったのだろうと読者の我々はやるせなく思う。

 

 事故の原因は、作業工程において本来定められていた手順や安全対策が簡略化されていた事にあった。作業の効率化のため、わざわざ「裏マニュアル」が作られ、会社はそれを承認していた。しかも事故当日はその裏マニュアルさえ無視され、危険な方法で作業が行われていた。ウラン溶液をステンレスバケツで扱っていたというぞんざいさに唖然とするしかない。被曝した本人はその危険性を知らなかったという。

 今日本が抱えている福島第一原発事故の問題について様々な思いがよぎる。

 効率を優先させて安全対策の優先順位をないがしろにした結果、とりかえしのつかない事故が「福島」の10年以上も前に起きていたのである。その間に我々は何を学んだのだろう。苦しみ抜いて亡くなった犠牲は何のためにあったのか。
 喉元過ぎた熱さの忘れっぷりに愕然とする。それは専門家や関係者だけの問題ではない。福島であの事故が起こるまで、僕も含めていったいどれだけの人がこの事故の事を憶えていただろう。世界でも類を見ないこれだけの大事故を、風化させていったのは一体誰か。
 原子力に依存した生活を送るのであれば、1人1人が自分の事として考えなくてはならない事を、福島の事故が起こるまで誰が考えていただろう。

 

 そしてこの本が伝えるのは放射線障害の凄まじさだけではない。「勝ち目」の無い闘いに挑んでいった医師たちの苦悩の記録でもある。
 医療従事者として、出来る限りの治療を行うのはもちろん義務である。しかし、前川教授をはじめ現場の医師・看護師たちは自分の行っている事が正しい事なのか常に迷っている。

 目の前の患者は苦しみ抜いている。しかも恐らく助かる見込みはない。これは治療に名を借りた人体実験なのか。「おれはモルモットじゃない」彼の言葉が突き刺さる。前川教授が最後に下した決断は苦渋のものだったはずだ。

 それでも、私たちは悲劇に巻き込まれていった人々の声に耳を傾けなくてはならない。治療中、体が朽ちていく中で妻に「愛してるよ」と話しかけた彼の心情を考えると、微笑ましさより胸が引き裂かれるような辛さを感じる。
 この本は現在にこそ読まれるべき記録だ。亡くなった人やその家族の慟哭と、医療関係者たちの苦悩を無駄にしないために。

 

 取材を行ったNHKの岩本記者はこの本のあとがきで、「原子力に頼る、世界で唯一の被爆国・日本。放射線被曝が人体に何をもたらすか、その国民こそきちんと知っておかなければならないのではないだろうか?」と記している。

 かつて原子力のメリットのために「命」が軽視された。それでも今後同じ道を歩むのか。今、大きな課題が突き付けられている。我々みんなに。

 

 2002年岩波書店から『被曝治療83日間の記録 東海村臨界事故』のタイトルで単行本化。2006年新潮文庫から文庫化。