ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]翔太と猫のインサイトの夏休み 哲学的諸問題へのいざない

 

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

翔太と猫のインサイトの夏休み―哲学的諸問題へのいざない (ちくま学芸文庫)

 

 

 子供の頃は夏休みがたっぷりとあって、いくらでも時間があった。毎日遊んで、遊び疲れて、それでも翌日は休みで、自由気ままな日々が夏の間中続いたものだ。
 大人になった今その時間が何ともうらやましくもあるし、あんなに自由な時間を無駄遣いしていた事にちょっとした後悔も感じる。
 もし今40日間も夏休みがあったらその時間を何に使うだろう。もしかしたら哲学的諸問題について考えて過ごすだろうか。

 

 この本は、哲学者が書いた哲学についての本。著者曰く<中学生・高校生向きの哲学の本です。考えることの好きな中学生を念頭に置いて書きました>との事だが、これがまたすこぶる難しい。表紙のコミカルなイラストも軽めの印象を受けるので、素人が「おッ、中高生向きの哲学の本か。これだったら哲学の知識ゼロの俺でも読めそうだな」などと軽い気持で手にとって読み始めると、あっという間に哲学の迷宮に迷い込んで途中で投げ出してしまうに違いない。
 そもそも著者は中高生向けというより、自分が中高生だった時に読みたかった本という意味でこの本を著したらしく、なるほど、そう考えてみれば単なる子供向け入門書とはならなさそうだ。大体著者は大学の哲学の授業のテキストとしてこの本を使っているらしいし。

 

 1996年の夏。中学二年の伊豆蔵翔太はカーテンの隙間から差し込む太陽の光を受けて目を覚ました。胸は期待に満ち溢れている。今日は夏休みの初日なのだ。これから40日間、何をしよう!
 だが翔太は目覚める直前に見ていた夢が気になっていた。夢から醒めるとまだ夢の中で、それから醒めてもまだ夢の中で……という入れ子の夢。だとしたら今この現実だと思っている瞬間ももしかしたら夢なのではないか? そこで話しかけてきたのは飼い猫のインサイト。不思議なインサイトはしゃべる事が出来るし何でも知っている。夢と現実の違いを考えながら、翔太とインサイトは哲学的問題へと足を踏み入れていく。
 この世界が培養器の中に入れられた脳が見ている夢ではないと言い切れるか。大勢の人の中で自分という特別な存在がある事の意味は。翔太は夢を手掛かりに、哲学の夏を過ごすことになる。

 小説仕立てで、中学生と猫の対話という形式をとっているからとっつきやすく見えるんだけど、正直、自分も読んでてよくわからなかった。ネット等で他の人のレビューを読んでいると、哲学に詳しい人からは相当面白いという事で絶賛されている様子。しかしそうでない人には作中で何が進行しているのかもよくわからないだろう。
 何となく雰囲気でこの2人(1人と1匹)がかなりエキサイティングな議論を交わしているのだろうとわかるのだけど、答えを明快に提示する類の問題ではないので、結局何なんだ!? と自分のような素人は戸惑ってしまう。
 ただ、著者はあえて読者に考えてもらうためにこの本を書いたのであって、明快な哲学の解説書として書いた訳でないのだ(と思う)。

 

 「翔太、きみは本当に馬鹿だね」作中でインサイトは何度も翔太をけなすような事を言う。もちろん翔太が的を射た事を言った時は素直に評価するのだが、的外れな事を言うと容赦ない。猫にけなされるというのも情けないが、つまり主人公である翔太も正しい事を言うとは限らないのだ。
 だから著者は読者に語りかける。おかしいと思ったら読むのを中断して自分の頭で考えて欲しいと。そして自分なりの考えをまとめてから先を読み進めて欲しいと。 

 

 この物語のナビゲーターとなる猫のインサイト。手元の辞書によるとinsightとは「洞察(力)。眼識、識見」の意だそう。だけど彼も答えを教えてくれる訳ではない。やはり読者が考えなくてはならない。

 テレビ番組『ハーバード白熱教室』で大きな話題となったマイケル・サンデル教授の授業のように、哲学的問題について考え抜くことは日常であまりない体験であるがそれゆえハマってしまうと熱狂的な興奮をもたらしてくれる。
 この本を読んで、哲学素人の僕なりに感銘を受けた言葉がある。

<哲学ってみんなそうなんだよ。つまり結論はそれだけ取り出せば誰でも知っているあたりまえのことを言っているだけなんだよ。でも、いったん問題を感じた人にとっては、そのあたりまえのことのとらえ直し方が、それこそが輝いて見えるんだよ>(p207)

 

 1995年にナカニシヤ出版から単行本刊行。2007年文庫版化。

 あとがきでは著者自身が本書を自作にも関わらず絶賛しているところがちょっと微笑ましいが、ラストに待ち受けるちょっと意外な展開など、確かに読み応えはある。
 もし時間があればじっくり考えながら何度も何度も読み返したい本だ。だが大人になってしまった僕にはそんな贅沢な時間の使い方は許されない。
 だから少年時代の夏休みが羨ましいのだ。あっという間に過ぎていく夏を、家から一歩も外に出ず、考えに考えながら過ごすのもそれはそれで悪くない。