ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]水域

 

水域(上) (アフタヌーンKC)

水域(上) (アフタヌーンKC)

 

 

 『水域』といえば、SFファンなら椎名誠が1990年に講談社から刊行した同名小説を思い出すかも知れない。椎名誠の『水域』は、世界が水没した世界での冒険譚だったが、2011年に同じ講談社から刊行された漆原友紀のコミックは、猛暑のため水不足に悩まされる街の物語である。

 

 とある地方都市。うだるような炎天下の中、水泳部の千波は中学校のグラウンドで基礎体力作りの運動ばかりさせられていた。渇水対策のためプールは水を抜かれ使えないのだ。ふてくされながらもグラウンドを走るうちに千波は倒れてしまう。
 そして気がついた時、千波は雨の降る見知らぬ場所にいた。そこは寂れた村らしく、彼女は古めかしい家に住む父子と出会う。不思議なことにその父子以外に人は見当たらず、村ではずっと雨が降り続いているという。
 そして再び気を失って気付いた時、現実の世界に戻った千波はこの奇妙な夢を母親に語るのだった。
 そこから始まる何代にもわたる「家族」の物語。『蟲師』で注目を集めた漆原友紀が新境地を切り開く、ある家の年代記。

 

 実は最近まで僕は漆原友紀が女の人って事を知らなかった。マンガ好きの間では有名な話らしいが。でもそう思って読んでみると、なるほどその作品からは確かに女性らしい繊細さと強さを感じさせる。
 考えてみるとこの物語も主に母と娘が中心となる女性たちの物語だ。主人公は女の子だし、そのお母さんのお母さん、おばあちゃんのおばあちゃん、そんな母から娘への繋がりが歴史の糸を紡ぎだしているのだな。

 読者は早い段階で何となく予感はすると思うのだが、千波が訪れる不思議な場所は彼女の母親、祖父母がかつて暮らしていた故郷なのである。

 懐かしさを感じさせる祖父母たちの故郷で、謎の少年と交流を深めていく千波。その姿は異世界に来ているのに全然不安感や悲壮感は感じさせない。自分がどこにいるのかはわからないが、何故か安心する。そんな場所は千波にとって第2の居場所になっていくのだった。

 

 物語は中盤、祖母による回想へと移っていく。美しい自然が残る村での少女時代。そして出会い、青春時代。戦争の影に脅かされたりしつつもやがて幸せな家庭を築いていくのだが、村に大きな転換が訪れようとしていた。

 村人に愛される美しい滝には龍神の伝説が残っている。龍神が引き合わせてくれたのは失われた家族の絆なのだ。

 派手なアクションはない。あっと驚くようなどんでん返しがあるわけでもない。ミステリーというには雰囲気がゆるすぎる。ホラーというには牧歌的だ。そう、そこに描かれているのは、水がつなぐかけがえのない物語。そこで感じられらのは大きな「何か」、「守護者」のような存在の何か。

 そして胸にチクリと突き刺さるような罪の意識。自分だけの胸に隠し持っていた罪悪感とも何とも言えないこの意識が物語の根底にある。水の底のようなその場所から思い出とともにすくい上げられたのは主人公の知らない過去。

 自分がいるべき場所の意味。それは自分の存在する理由にさえ繋がるものだ。

 

 意図的に狙ったようなあざとい「泣かせ」の演出もないのに、読み終えた後は目頭に熱いものがこみ上げてくるに違いない。大切な約束を果たし終えた後のように、しみじみとした日々をかみしめるような涙である。
 水面が揺れる向こうに、現実世界と夢の世界の境界が揺らめいている。水が蒸発するように、その境目はやがて曖昧になっていく。

 

 『蟲師』では文明と文明以前の合間の世界を巧みに描き出していたが、作者はこのような柔らかい境目みたいな世界の描き方に非常に雰囲気があっていい。

 母から子へつなぐ家族の絆は、たどり返していくと自分のルーツを探る旅で、それは歴史を遡ってもずーっとつながっていくのだ。当たり前なんだけど、よくよく考えてみると何とも不思議だ。

 たくさんの命の繋がりの果てに僕たちの今がある。見上げればそこには眩しい夏の太陽があり、頬を伝う汗はアスファルトに吸い込まれていく。人が人を想うその「想い」が世界を作っている。そんな事に気づかせてくれる。

 

 心憎い演出が胸に詰まるような感動をもたらす物語だ。とにかく水の描写が美しい。優しくて切ない人々の日常が水飛沫を介して語られているようだ。
 「水域」という言葉の真の意味が心に迫るラストはしみじみと余韻を残す。少し怖いような心の闇をにおわせつつ、それでも今を生きていく。

 「昔はよかった」そんなノスタルジーだけでは前に進む事は出来ない。今にしがみついていても未来はやってこない。

 どこにでもある普通の村。他の誰から見てもそれといって特徴のないただの村。そんなふるさとを思う人の気持。そんな描きにくいけど大切なものを描き出す夏の物語。酷暑の夏に読むとさらに雰囲気が増すかも知れない。
 雑誌「月刊アフタヌーン」2010年1月号から12月号に連載。上下巻。