ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争

 

ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)

ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)

 

 

 1990年代前半、複雑な多民族国家を形成していた旧ユーゴスラビア連邦は、連邦内の共和国が次々と独立、連邦崩壊の危機を迎えていた。そんな中ボスニアヘルツェゴビナが独立を宣言、ボスニア紛争が勃発する。
 それは単なる独立紛争というだけではなく、ボスニア国内でも様々な民族が対立する泥沼の戦いだった。出口の見えない惨劇の中、ボスニア政府は状況打開の一手を打つ。それはアメリカの大手PR会社ルーダー・フィン社と手を組み、世界中の世論をボスニア支持へと向かわせること。そしてルーダー・フィン社からやってきた敏腕PRマン、ジム・ハーフと、ボスニア政府のハリス・シライジッチ外務大臣は運命的な出会いを果たすのだった。

 

 この本は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争においてPR会社が影で果たした役割を克明に描き出すノンフィクションである。アメリカの一企業であるPR会社が、紛争の運命を左右する驚くべき情報戦を繰り広げていた。2000年10月にNHKで放送された『民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕』の書籍化である。

 

 戦争の行方を民間企業が左右するという事に驚かされるが、その手法はプロフェッショナルそのものだ。マスメディアに対する詳細な情報提供、影響力を持つ人物への接近、印象的なキーワードの設定……。地道なこれらの「根回し」ともいえる活動が、少しずつ世界中にボスニアの立場をPRしていく。
 部外者の目から見ると、不謹慎ながら戦争のドンパチに勝つための策としてはなんかセコいなあ、と感じてしまう。しかし実際この活動が、ボスニア紛争とはなんの利害関係もないアメリカを動かし、世界の論調を動かす大きな流れを作り出してしまうのだ。

 

 本書のタイトルは「戦争広告代理店」だが、日本の広告代理店のイメージで捉えるとその活動内容はちょっと違う。「広告代理店」というよりは前述したように「PR会社」である。彼らは戦争を煽る広告を流す訳でもないし、スポンサーを探す訳でもない。まあもしかしたら本書に書かれていないだけでそういう事もやっていたのかも知れないが、どちらかというと彼らが行っているのは「広告」というより「広報」である。どちらも「宣伝」というカテゴリで語ることができるのかも知れないが、その内容は少し違う。

 

 当時ボスニアと対立していたユーゴスラビアセルビア共和国を率いたミロシェビッチ大統領は、PR企業の巧みな戦略により、世界的な「悪者」へと仕立て上げられていく。
 世論誘導というと捏造や隠蔽といったネガティヴなものを想像してしまうが、本書で描かれるのはもっと洗練された情報戦略だ。ルーダー・フィン社は倫理的な側面を重視し、決して倫理にもとる事はしない。ただ顧客であるボスニアの主張をわかりやすく明確にし、それを一般人という世論に的確に届けていくだけである。

 

 著者が本書内で何度も述べているように、ボスニア紛争においてはどちらかが一方的に悪い、ということはなかった。様々な民族の立場が絡み合い、どちらが悪とも言い切れない状況だったようだ。
 ただ、優秀なPR会社がバックについているかいないか、というそれだけが戦況を決した。ボスニアの方が自分の立場をうまく世界にアピールしたために「セルビア=悪人」「ボスニア=被害者」という図式を人々の頭の中に作り上げてしまったのである。

 これは非難されるような事だろうか? しかしそれまでボスニアの場所なんてどこにあるのかすら西側諸国では誰も知らなかったのだ。
 著者も指摘している通り、日本ではこのようなPR戦略が実に軽んじられている印象をうける。政府や外交活動においてだけの話ではない。民間企業から一個人の生活にいたるまで、自分の立場をうまくPRする事が日本人は下手なようである。
 それは現代においては致命的である。企業の不祥事など、これらの危機管理上のPR策が決定的に欠如している。例えば東日本大震災における福島原発事故についての東京電力の姿勢。事故収束のために自分たちは頑張っているのだから、その努力はそのうちわかってもらえる、と考えているのかも知れないが、世論はそんなに甘いものではない。その姿勢は普段からPR手法の大切さを熟知している企業とは全く違う。

 

 そしてこの本の構成自体が、実に巧みにできているように感じる。センセーショナルなタイトル。冒頭に、「主な登場人物」や舞台となる土地の地図を付す。1つの章が短く、わかりやすい言葉で伝えたい事を明確にする。
 著者自身PRするテクニックを身につけているのかも知れない。だから本書は強く読者の胸に迫るのだ。講談社ノンフィクション賞新潮ドキュメント賞を受賞。TV番組の書籍化にも関わらず、著者がノンフィクション作家として高く評価されたのはそれらの要素がうまく活かされていたからではないか。
 情報戦略というこれまでにない切り口で戦争の本質をえぐった本書は、そういう意味でもエポックメイキングな本なのである。

 

 2002年講談社にて単行本刊行。2005年講談社文庫にて文庫化。