ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,

 

 

  北海道。神居古潭周辺。かつては多く見られたという不思議な生物ハネネズミが、ひっそりと絶滅の危機に瀕していた。行政はその観察・研究のために種保存センターを建設、旭川医大生物学教室教授を退官したばかりの榊原景一氏を所長に迎える。 

 しかしこの時点で保護されている個体は2匹のみ。恐らくこれが最後の2匹だ。
 研究を進める中で明らかになっていく奇妙な生態。これまでの生物学の常識が通用しない相手に研究成果はあがらず、絶滅は時間の問題かと思われたが、そんな状況を覆したのは環境庁からの依頼で派遣された東大応用生物研究所の明寺伸彦部長だった。

 医師であり作家である石黒達昌が1993年に発表した「平成3年5月2日,後天性免疫不全症候群にて急逝された明寺伸彦博士,並びに,」はあらゆる点で特異な小説である。
 まずこの長いタイトルだが、実はこの文章には題名はない。しかしそれでは何かと不都合だという事で「個体識別のために」冒頭の一文を記しているという。
 また最も特徴的なのが独特な表記形式だろう。横書きの論文的形式で書かれているのだ。
 研究者たちが残した資料を整理し石黒氏がレポートするという形を取り、言われなければノンフィクションだと思ってしまいそうなほど精緻な報告である。作中には図表や写真が挿入されている。「、」や「。」ではなく「,」と「.」が使用される。文末には「参考文献」として論文や報道資料のリストまで付されている。
 いかにも理系の作者らしい書き方だが、これが扱っているのは「生命とは何か?」という重いテーマだ。

 北海道に生息しているにも関わらず体毛が少なく、背中には小さな羽根がある。動作はスローで、大きな耳、小さな尻尾を持ち、内蔵の位置関係は他の哺乳類とは大きく異なっている。そんな不思議な生物ハネネズミを巡る研究は、明寺と榊原を中心に進んでいくが、明寺が登場して以降の急展開は目を見張るものがある。
 わずかな材料から仮説を組み立て、一つ一つの謎に対する答えを導き出していく。レポート形式で記述されるその過程は、予想外にスリリングで興奮に満ちている。学者が絶滅寸前のネズミを研究するという本当に地味な場面なのだけど、これだけ臨場感を持って「物語」として成立しているのは医学的知識が豊富な作者の力量だろう。

 もちろん小説なのであるから現実的枠組みの中に架空の要素を組み入れているわけで、恐らく専門家の目から見るとうまく誤魔化している部分もあると思うが、それでもこの筆致は只事ではない。
 ハネネズミの絶滅を阻止するべく明寺と榊原はある実験を行う。その結果待ち受けていたのは……1989年9月11日、研究室で何が起こったか。
 最後には非常に感動的で、非常に恐ろしい場面が待ち受けている。無機質な論文形式の文章でここまで心が揺さぶられるとは思いもよらなかった。僕はある一行で思わず声を上げそうになったくらいだ。

 ハネネズミの謎にはミステリー的な驚きがあるし、扱っているテーマはSF的要素も含んでいる。作者は子供の頃から「SFマガジン」を愛読していたというし(Webサイト「アニマ・ソラリス」掲載のインタビューより)、SF的な観点は絶対持っていると思う。
 だがなお衝撃的のはこれが「文学」として成立していることだ。論文的形式で書かれながら、娯楽小説の味わいを持ち併せ、それでいて感触は紛れもなく「文学」なのだ。
 実際、発表された際には大江健三郎筒井康隆沼野充義らから評価され、第110回芥川賞や第16回野間文新人賞の候補になっている。こういう作品を世に送り出した福武書店(現ベネッセ)の「海燕」編集部の功績も大きい。

 本書には他に「今年の夏は雨の日が多くて、」と「鬼ごっこ」を収録。こちらは両方とも普通に縦書きで書かれているが、「今年の夏は……」の方もタイトル無しで冒頭の一文をタイトル代わりにしている。

 これらにおいて石黒氏が一貫して追求しているのは、我々にとって生命とは何なのか、という事だ。医学、生殖、遺伝子、感情、死。人間として生きる私たちが「生命」という巨大な構造の一部でしかないのであれば、生命とは一体何を目的とし何のためにあるのか、というあまりにも壮大な問いである。
 もしかしたらこの小説は科学と文学を線引きすることの無意味さをも描いているのかも知れない。

 2000年にはハネネズミ再生プロジェクトを描いた続編「新化」と併せ文庫版が刊行されている(『新化』ハルキ文庫刊)が、普通の縦書きの文体に直されている。図版もかなり差し替えされたり削除されたりしている。

 編集作業の都合上仕方ないのかも知れないが何となく重要な魅力が削られた気がして、横書きの単行本版の方が研究者たちの息づかいまで伝えていたような気がする。だから単行本版と文庫版であれば、絶版で現在手に入れるのは難しい(そもそも版元が文芸出版から撤退している)のだが、僕は断然単行本の方を推す。