ペイル・グリーン・ドット/読書日記

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 田宮さんはああ言っていたけれど、ちっとも痛くなかった。そして、頭のなかでラムネの泡がはじけるみたいにいろんなものがぱちぱち壊れてしまった。
 そして、ぼくたちはすこし馬鹿になった。

北野勇作『どーなつ』


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[読書]複製症候群

 

複製症候群 (講談社文庫)

複製症候群 (講談社文庫)

 

 

 子供のころ、藤子・F・不二雄原作のアニメ『パーマン』が好きだった。空を飛ぶマントや、トランシーバー兼水中呼吸器でもあるバッジなど魅力的なアイテムが作中に多数登場したが、僕が一番欲しかったのは「コピーロボット」だった。 

 コピーロボットは鼻のスイッチを押す事で持ち主とソックリに変身するロボットで、パーマンがヒーローとし て活躍している間、代わりに日常生活を送る役回りだ。おでこをくっつける事で本物とコピーの間で記憶の共有ができるため、あの頃の子供たちなら「コピーロボットさえあればコピーに勉強を全部やらせて自分は遊んでいられるのになあ」という妄想にふけった事が一度はあるに違いない。
 もちろんコピーロボットなんて現実には存在しないし、実際したとしてもそれは世の中をますますややこしくしてしまうだけだ。世の中に同じ人間が二人存在していいはずがない。
 しかしそんな状況がもし我が身に降りかかってきたら……それは楽しいアニメのような展開にはならない。
 『複製症候群』はそんな極限状況における悪夢を描いたミステリー小説である。

 中高一貫の私立進学校に通う貴樹は、この春から高等部に進学した。勉強だけでなく友情や恋愛、人間関係に家族との関係とこの年頃の少年に悩みはつきものだ。
 そんな土曜日の午後、貴樹は数名の仲間たちと空から落下してきた虹色の「壁」に閉じ込められてしまう。世界中に突如出現した「壁」は高さ数千メートルに達し、直径は数百メートルの円筒形をしている。その形状から「ストロー」と呼ばれるようになるその壁は恐るべき性質を備えていた。壁に触れた生物を複製してしまうのだ。
 貴樹たちが閉じ込められた「ストロー」内には、彼の担任である先生の家があり、その隣には大きな屋敷があった。2軒の建物と閉じ込められた人々。そこで巻き起こるのは……殺人。疑心暗鬼が交錯する中、やがてさらなる事件が発生するのだった。

 同じ一日を何回も繰り返してしまう『七回死んだ男』や、玉突き式に人々の人格が入れ替わる装置が登場する『人格転移の殺人』など、突飛な設定のミステリーで有名な西澤保彦は「SFミステリー」と分類される事も多い。でもその突飛な設定は舞台装置としてのみ存在し、その謎の追求が物語の主題となることはあまりない。
 そして現実離れした設定の中にも厳格なルールを設定し、その中で展開される人間心理を非常に丹念に書き込んでいる。この小説でも謎の物体に閉ざされた密室という状況と、高校一年生という微妙な時期の少年たちだからこその心理が物語に深く関わっている。これら西澤作品が味あわせてくれるのは思考実験としてのミステリーの面白さだ。

 考えてみたら、同じ人間が複製されてしまう、と言ってもそれがどんな風に複製されるのかで話は全然違ってくる。
 『パーマン』のコピーロボットは自分がロボットである事を認識していて、自我があり、時には持ち主に逆らうこともあった。『複製症候群』に登場する複製は、「ストロー」に触れた者の直前までの記憶を有したまま出現し、説明されないと自分が複製だという事はわからない。この本の表紙には「Clone Syndrome」と英題が記されているが、それでいけば「クローン」というより「コピー」と言った方が正しい(作中では「クローン」という言葉も「コピー」という言葉も混在して使用されている)。
 そしてそんな状況で生まれてくるコピー人間は当然のように自我の危機に直面する。自分がコピーであるなんて思いもしなかったのに、突然コピーとしての人生を歩まされる。しかもオリジナルの記憶をそっくり受け継いだままでだ。それが実に恐ろしい。

 西澤保彦らしい筆致で丹念に描き出される心理がやがて読者の心に重く突き刺さる。冒頭が爽やかな青春小説風の始まり方だけに、その恐怖はハリガネのように冷たく心をえぐっていく。
 ただし、そこらへんの描写は西澤作品にしては若干書き込み不足な感じなので、ヘビーな西澤読者は物足りないかもしれない。肝心のミステリー部分もなんか驚くほどの展開ではないし。もっと掘り下げる事ができそうなのだが、ページ数の関係か後半駆け足になるのが残念。ラストでちょっと肩すかしをくらうかも。それでも西澤節というか、人と人との関わり合いが思いもよらぬ悲劇に発展するという展開は健在なのだけど。

 文庫版あとがきで作者自身も触れているように、この小説が世に出た頃とは時代がだいぶ変わっている(原書が講談社ノベルスより刊行されたのが1997年)。今ならこんな展開にはならないだろうな、という部分も多い。その要因は主にインターネットの普及が大きいが、「外部から隔絶された世界」という舞台装置が現代においてはそれだけ作り出しにくいのだろう。